人間は他人との相対感の中で自己を定義していく生き物である

世界中に自分一人しか存在しなければ、自分の能力がどの程度のものであるかということを確認する術がない。例えば100メートルを9秒フラットで走れる人間がいたとして、もし彼が無人島で一人で生きていたとしたら、実は自分が「世界で一番足の速い人間」であるということを知らないまま死んでいくことになる。

ただ、100メートル9秒フラットの俊足も、所詮は「人間としては速い」に過ぎず、チーター界では「世界一の鈍足」である。比較する母集団が変われば、評価は180度変わる。
「かしこさ」や「美しさ」などはさらに基準がはっきりしない。記憶力は抜群にいいけど、思考力はまるでダメ、という例はいくらでもあるし、「平安美人」は現代社会ではただの「オカメちゃん」である。

つまり、絶対的基準がないものは、相対的にしか価値を評価できないのだ。従って、人間は、自分が属している社会の他人との相対感の中で自己を定義していくしかない。

子供の頃は、比較する対象が家族や近所の友達ぐらいしかいないので、同年代の人間と比べて自分のどの部分がどの程度優れているのか、ということを認識していない。他人と比べて自分は頭がいいのか、あるいは美人なのか、といったことも、学校に行って多くの比較対象がいる中で生きているうちに、周りの人間との比較の中で徐々に認識し、「自分は人より頭がいいようだ」「私は可愛いから周りの人からちやほやされるみたいだ」ということが徐々に分かってくるようになる。

私の息子の場合、幼少の頃、家族みんなでテレビのクイズ番組を見ている時、家族の誰よりも早く答えを言っていた。彼にとってはそれが普通のことなので、よく私に向かって、「どうしてパパもすぐに答えないの?」と無邪気な目で聞いてきた。自分が分かることは当然、周りの人間もわかっているはずだ、という素朴な世界観から出てくる発言である。

その後、彼も学校に入り、同世代の人間と生活していくなかで相対的な自分のレベルを認識し、結果的に現役で難関国立大に入り、自分の能力の相対的な高さを十分に認識したはずだ。

にもかかわらず、自分ができることは他人も同じようにできる、という認識は子供の頃と変わらないようで、あれから20数年経って社会人になった今でも、「なんでこんなことが周りの人間はできないんだ!」と毎日、ボヤいている。

クイズ番組が会社の仕事に変わっただけで、本質は変わらないのかもしれない。自分の能力を認識できたとしても、同じレベルを他人にも要求するかどうか、というのは、また別の問題のようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?