![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/163159033/rectangle_large_type_2_1913101f9831dd350b753d5408a80e68.jpeg?width=1200)
リサーチ・クエスチョン(RQ)って、嘘っぽいと思ってた。実際それは嘘っぽく、問題は虚構を演じられるかなのだ。 —— 修論日誌番外編 ①
もう修論提出まで2か月もない(というかほぼ1か月とちょっとな)のですが、リサーチ・クエスチョン(以下、RQとも)らしいRQが立っていません。ヤバいですね。
もともと、私が親しんできた分野では、リサーチ・クエスチョンを論文の冒頭に掲げるという習慣がないと言うのもあります。ミシェル・フーコーがリサーチ・クエスチョンを立ててたかって話です(もっとも、フーコーなりの「研究課題」というものはあって、その上で書いていただろうことは承知ですが)。
周りの人の研究発表を見たり聞いたりしていても、正直、あんまり納得いっていませんでした。だって、修士1年の段階の発表で「本論文のRQは以下の3つである」なんて言われても、「そんな簡単にリサーチ・クエスチョンなんて立つものか!」と内心で思ってました(ごめんね)。
だから、私はずっとリサーチ・クエスチョンがないというツッコミを他人から受けながらも、わざとリサーチ・クエスチョンなしで研究発表を行って来ましたし、「さすがにないままだとまずいかな……」と思って仕方なくRQを書いたときも、誤魔化しでやってました。もちろん、大きな問題意識というのはあるんです。さすがにそれがなかったら、研究の動機すらないことになってしまいますから……。
RQってのは、それに答えられれば論文として成立するような問いかけになってると思うんです。ってことはですよ、メノンのパラドックスみたいですけど、何が問題か最初からハッキリわかってるんなら、研究なんてする必要がないじゃん!と思いませんか? 私は大学院に来て以来、ずっとそう思ってました。
もちろん、学術論文ってのは、分野ごとに形式が明確に決まっています。なので、私も自分の属する分野の要求から、修論を書くにあたっては、リサーチ・クエスチョンを書かないわけにはいきません。でも、どうしたら良いんでしょうか? リサー・チクエスチョンなんて、嘘くせーって思いながら、それでもリサーチ・クエスチョンを私は書くべきなんでしょうか? だいたいこんなことを考えていたときにタイミングよく出たのが『リサーチ・クエスチョンとは何か?』(佐藤郁哉著、ちくま新書)でした。そして、この本で書かれていたことがまさに、私なりの解釈の上で言えば、リサーチ・クエスチョンってのは嘘くせーもんであるってことだったんです(なんだよ、やっぱりそうなんじゃん!)。
いままさに修論執筆中なんで、細かく引用部分とか示す余裕がないため、私なりにこの点について粗く説明します(すみません)。リサーチ・クエスチョンに関する嘘臭さというのは、大きく2つに分けられそうです。ひとつめは、こう。
1)答えが出れば論文として成立するような問いが最初から(修士論文であればM1のうちから)明らかになるはずがない(のに、周りの人はRQを書いている。そんなの嘘だ!)。
そして、もうひとつは、こうです。
2)答えが出れば論文として成立するような問いが最初から(論文の冒頭から)わかっているはずがない(のに、ほとんどの論文は冒頭でRQが出てくる。そんなの嘘だ!)。
ひとつめの嘘くささを、「研究過程におけるリサーチ・クエスチョンの虚構性」、ふたつめの嘘くささを「論文の構成におけるリサーチ・クエスチョンの虚構性」と呼んでみます。
私がいまRQなんて嘘くさい、と堂々と言えるようになったのはこの本で紹介されている、ピーター・メダワー(1960年にノーベル生理学・医学賞)という人の「科学論文は一種のペテン(fraud)である。」という記述に助けられているところが大きいです。
これに関して著者は「実際の調査プロセスと典型的な論文の「型」とのあいだには明らかなギャップがある場合が少なくないのです」(23頁、強調は原文通り)と述べ、論文には2つの顔があると言っています。
① 結果報告 —— 調査で得られた最終的な結論(問いに対する答えのエッセンス)を、読者にとって分かりやすい形で報告する=「最終的な結果としてこういう事が分かった」という点に関する報告
② 経緯報告 —— 実際の調査の経緯(問いに対する答えが得られるまでの過程)について正確に報告することによって説明責任を果たす=「調査結果は、きちんとした手続き(経緯)によって明らかにされたものである」という点に関する報告
論文で求められるこのような形式(あるいは型や体裁といってもいいでしょう)のために、論文執筆過程において当然ある紆余曲折があたかも全く存在しないかのように見えてしまうわけです。その上で著者はこう述べます。
その意味では、世の中の論文の多くはフィクションなのです。事実とは違うという意味では、一種の「ウソ」に他なりません。メダワーの言葉を借りればペテンだとさえ言えます。ただし、そのウソやペテンは明らかな研究不正でもなければ、読者をだまして不当な利益を得ることなどが目的ではありません。むしろ、調査結果という真実を効率的に伝えるためにあえてウソをついているのです。
私は紆余曲折とかをあるがままに論文に写しとるほうが正直でいいなってずっと思っていたんです。でもそうやって書くと「これはエッセイだ」とか言われて査読も通らないんです。それですっごいモヤモヤしてた。過程に忠実である方が何か真実めいたものになる気がするのは確かだが、とはいえ論文も「型」の世界。論文における嘘を嘘だとわかったうえで、それでも「嘘」をつかざるを得ない。ここまでくると、論文における虚構を演じられるか、という問題になってくるのでしょう。
最後に、この虚構性を演じるための心構えをどうやって持てばいいか、ということを書いて終わりにしたいと思います。
【研究過程における虚構性を演じるための心構え】将来的に論文の中でRQを設定しなければいけないことは心得ている。これが論文のなかでのRQとなるかは正直まだわからない。ただ、暫定的に定められたこのRQによって私の研究は進んでいくし、その過程でRQが更新されたり、修正されたりすることもある。もちろん、変更を加えないで済むRQもあるかもしれない。ということで、現段階におけるRQは、その程度のものであり、答えたからと言って論文になるものにはまだなっていないことも承知している。それでもここ(ゼミの発表原稿など)にRQを並べているのは、現時点でのRQを示すとともに、RQを設定する必要があるという学問分野のしきたり(型)を理解していることも示すためである。
【論文の構成における虚構性を演じるための心構え】答えが出れば論文として成立するようなRQを最初から把握できていたわけではもちろんない。だから、論文冒頭でこのようにRQを並べるのは嘘つきに見えるかもしれない。だがこうしているのは、論文の「型」が要求するからであり、それは言ってみれば読者へのサービスでもある(Cf. 『リサーチ・クエスチョンとは何か?』171頁)。
終わろうと思ったのですが、何点か補足します。 先に私は「RQってのは、それに答えられれば論文として成立するような問いかけ」と書きましたが、佐藤氏によるリサーチ・クエスチョンの定義は次の通りです。
【リサーチ・クエスチョン】社会調査(社会科学系の実証研究)のさまざまな段階で設定される研究上の課題や問いを疑問文形式の簡潔な文章で表現したもの。
次に、小熊英二氏による『基礎からわかる 論文の書き方』(講談社現代新書)の帯には、「学問には「型」がある」とありますが、帯が必ずしも著者によって書かれているわけではないことを承知で言うと、この「型」というのは、方法における「型」というよりも、まずなにより論文の形式としての「型」として理解するのがいい、ということに気づきました。
最後に、とはいえIMRADだけが論文じゃないぞってことを忘れないためにも、『「論理的思考」の社会的構築 フランスの思考表現スタイルと言葉の教育』(渡邉雅子著、岩波書店、2021年)を強く推奨しておきたいです(←いまAmazonで見たら、Kindle Unlimitedに入っているんだけど、何かのミスか!?)。
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?