仲原舞音(maine)

日々の自分の感じたことを感じたままに、気付きを気付いたままに書いています。 私の備忘のようなNOTE。 自分で人生を拗らせてきたと気付いた時から、新たな人生が始まる。 起きた出来事の捉え方は自由、だから自由に人生をクリエイトしていこう♪

仲原舞音(maine)

日々の自分の感じたことを感じたままに、気付きを気付いたままに書いています。 私の備忘のようなNOTE。 自分で人生を拗らせてきたと気付いた時から、新たな人生が始まる。 起きた出来事の捉え方は自由、だから自由に人生をクリエイトしていこう♪

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今ここにいることを意識すること。

どうやら私は一般的な普通という定義があるとすると、その人達よりも今を楽しむことができていないらしい。 (2024私調べ) そういえば大人になって、背中の荷物が重くなってきた頃から、推しのライブに行っても【ここにいない】状態でライブに参加していた。 もちろん推しのライブだけではない。 普段の生活の中で【ここにいない】私が今やるべきことをこなしているという感じ。 いっつも【ここにいない】から、イライラするし、色んな事が気になって目の前のかけがえのないことを味わえていなかった。

    • とにかく自分に目を向けて行こう。

      去年、自分が一番やばい時の写真をたまたま見た。 ”やばい”って言葉、使いたくないけれど、私が知っている単語でピタッとはまるのがこれしかないくらい、やばい。 自分の身をすり減らして、精神もすり減らして、外の人間を変えたい変えたい、どうにか変えたいと躍起になっていた頃。 どうにか変えられると思っていた頃。 自分が変わるから、どうか、変わってくださいと心の中で朝から晩まで叫んでいた頃。 表現としては少しずれているかもしれないけれど、外側に生気を吸い取られてカッスカスのスッカスカ

      • 嫌な面が見えた時、それには良い面があるということに気付きながら生きる。

        昨日は風が強かったなあ。 そして今日は急な極寒。 毎日毎日表情を変える天気に、一喜一憂するのではなく、風が吹けば何かの種がどこか良い場所へ運ばれて、寒くなれば毎日ルーティンで作っている温かいスープの美味しさに感動する。 日常の全てが、こんな風に一瞬嫌だなと思うことが陽に転じることで溢れている。 先月からの微妙な体調が急に回復した。 一瞬、20年ぶりに医療的なカウンセリングの場に行かないとダメなのかも、、、と思ったけれど、そこに気付いた時点で既に体は回復していたということかも

        • 意識を自分に向ける。

          先月からの微妙な体調不良によって、何が自分に影響しているのかを日々観察してきた。 とめどなく流れてくるネガティブなSNSを完全にやめて、もう1つのSNSも、心から好きと思える人のものだけを見るように。 これだけで、頭の中とか心の中とか、お腹の中とかに溜まっていた何とも言いようのないモヤモヤとした余計なものを削ぎ落すことができている気がする。 本当は今自分が思いを巡らさなくてもいいことに、勝手に乗っかって、勝手に感情を高ぶらせる。 外からの情報って、本当、笑顔で近づいてくると

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        今ここにいることを意識すること。

          穏やかに過ごすことが何より自分のためになる。

          自分の置かれている環境に悲しくなったり、自分に周囲にイライラしたり、悔しくて泣いたり、溜め込んでいた怒りを思い切り出したり。 色んな感情を抱えてきたけれど、何かを出すたびにその後は必ず疲れるし、小さな罪悪感に見舞われたりもする。 だったら出さなければ良いじゃんね。 って思う。 発散することで解消されるのか? と自分に問いかけてみると、今の私にはそれはNO。 もし出したいのなら、ノートとかその辺の紙切れに書いて捨てることで対応できる。 私はそうしている。 1年半ほどまえに

          穏やかに過ごすことが何より自分のためになる。

          自分が良いと思うものに触れる。

          無意識に毎日を過ごしていると、それなりの毎日になる。 昨日の延長線上にある、あまり変わらない毎日。 私はこんなもん、って思っていれば、そうなる。 だから人には何かの気付きを得るための「イベント」が起こるのかもしれない。 イベントと言ったけれど、これは人生における楽しいものではなくて、そのままだと自分が見えなくなっちゃうよという引っ掛けみたいなこと。 最初は何もないところで躓いてみたり、ものが壊れたり、体調を崩したり、、、 気付かないまま、もしくは気付いているけど仕方が無いと

          自分が良いと思うものに触れる。

          自分の感覚を信じること。

          ずっと自分の違和感とか、前向きなやりたいとかを無視して生きてきたけれど、ようやくこの1年くらいで自分の感覚を大切にできるようになった。 もちろん、誰かを傷つけたり、迷惑をかけることのないように、ということが前提ではあるけれど、特に「迷惑をかける」を勘違いして捉えないようにしている。 我慢すれば、結果的に迷惑をかけることもあるから。 最近体調が微妙な日が続いていて、とはいえ寝込むようなことでもないから普通に活動しているのだけれど、その原因がとめどなく流れてくるSNSの情報な

          自分の感覚を信じること。

          起きた出来事に振り回されない。

          日常に起きる小さな嫌なこと。 昨日も、自分を責めてしまうようなことが起きた。 久しぶりにとことん自分を責め立てて、自分さえ○○ならばみたいなところまで落ちた。 こういう時は、自分が世界の中心にいるような感覚になるくせに。 そしてちょっとだけ泣いた。 もしかしたら随分前から泣きたい気分だったのかもしれない。 帰宅してからもずっと引きずって、寝る直前まで自分を責め続けた。 あれだけ肯定することをnoteに書いていても、ひとたびその渦に呑み込まれると一瞬でふりだしにもどる。 (

          起きた出来事に振り回されない。

          好きなものを集めたはずなのに。

          好きなものを集めたはずなのに、気付いたら誰かの良さそうなものが集まっていた。 その「好きなもの」って本当に私が好きなものなのかな。 と時々立ち止まって見渡してみる。 集めている時はきっと「好きなもの」風だったのかもしれないけれど、それを集めたこともすっかり忘れていて、久しぶりに手に取った時にはそっけない態度の自分。 目の前にある物質的な物も、人間関係も、SNSも。 気付いたらただただ気をつかうようなことで溢れかえってしまって、自分を苦しめていることがある。 だから少

          好きなものを集めたはずなのに。

          自分を見失わない程度に。

          とめどなく情報が流れてくるSNSは、自分が見えなくなる。 一瞬で自分も流れて行ってしまう。 と、最近わかって、思い切ってSNSの1つをやめた。 アウトプットの場として、とてもありがたいなと思っていたのだけれど、月日が経つにつれ、見たいと思っていないものまでどんどん目に付くようになってしまって、しまいには悩みの種の1つになった。 繋がりたい人と、繋がりたい時だけ。 なんて最初は綺麗に思っていても、結局その流れが速くなり、濁流になる。 確固たる強い意志を持っていない限り、

          自分を見失わない程度に。

          自分の世界は自分で良いように決める。

          良いことも悪いこともあるけれど、どんな風に捉えるかはそれぞれの自由。 もしそこで誰かが「それは正しくない、こうしたほうが良い」と言っても、しっくりこないのであれば、採用しない。 誰かがこう言っていたから、ああ言っていたから。 親が、先生が、先輩が、職場の人が、友達が、パートナーが・・・ いつしか自分の上に、誰かを置いてしまって、本当は右に行きたいのに左に行くような選択をする。 もう私は○○に影響を受けない。 と決めてから、少しずつ少しずつ自分の世界を取り戻している。 それ

          自分の世界は自分で良いように決める。

          自分の事だけ考えるなんてと言われても。

          自分のことだけ考えることに対して、人のことも考えてこそと言う話をちらほら聞いたことがある。 そのたびに、悩んだ。 私はいつまで人のことを優先して生きれば良いのかと。 何故私が「自分のことだけ」とこのnoteで言っているのか。 それは、どこかに置き去りにしてしまった自分を取り戻すため。 インナーチャイルドを癒すとか、そういう込み入った難しそうな話ではなくて。 人のことばかり考えていて、自分を消してきていたから、その穴を埋めたいだけ。 ただただ、自分の満たされていない部分を埋め

          自分の事だけ考えるなんてと言われても。

          共感しすぎるのも難あり。

          ここのところずっとショート文のSNSを使っていたせいか、noteを全然開くことがなかった。 自分のアウトプットにちょうどいいなと思って、毎日何回か投稿していたのだけれど、疲れというか体調不良がドッと押し寄せてしまったので一度離れることに。 ごくたまにかなりの人数の方が共感してくださったり、ワイワイ楽しいなと思う事もあった。 けれど、いつしか私自身がネガティブな方の投稿に引っ張られている。 気付けば自分と同じ立場の人の投稿で溢れかえり、【いいね】を押し続ける日々。 ハッと我に

          共感しすぎるのも難あり。

          ジャッジをやめる。

          何かを見て、聞いて、言われて、常にジャッジをしている自分。 全て自分基準でのジャッジ。 家族、職場の人、友人、すれ違う人たち・・・目に入る、関わるものすべてに対して一瞬でジャッジしている。 ジャッジしないこと とは聞いてはいたけれど、それが何なの?って思っていた。 そんな私だったけれど、自分ととことん向き合うようになってから、私、毎日自分以外の人を見て反応し続けている・・・! と気付いた。 昔、外食すると、母が必ず人間ウォッチングをしていた。 あの人はああだとか、こうだと

          ジャッジをやめる。

          自分が整う場所を知る。

          いつだって凪のような心を持って日々過ごしたい。 特別騒ぐような楽しい事とか嬉しい事なんていうのは、ほんのちょっとで良い。 悲しい思いも辛い思いも、ほんのちょっとで良い。 そんな風に思っていたって、自分が考えても見なかった斜め上の方向から、とんでもないことがやってくることがある。 1回や2回ではない。 そのたびに、感情を押し殺してきたけれど、何度か爆発してしまったことがある。 その時、私の今までの人生の怒りが全て放出されたといってもおかしくないくらい。 でもその後、出した後の

          自分が整う場所を知る。

          小さな違和感をやめていく。

          人には人の数だけの正解があって、やり方があって、感じ方がある。 そんなのわかっていながらも、「こうしたほうがいい」という情報に触れたり、直接言われたりすると、「そうなのかも?」って思ってしまう。 んなわけあるかい。 って心の底で思っているにもかかわらず。 この小さな違和感は、積もり積もって大きな塊となってついには「もうやめて」というようなサインがくる。 と、私は思っている。 土日は自分の仕事も今のところないし、朝はゆっくり寝ていようなんて思ってこの1年くらいは2度寝3度

          小さな違和感をやめていく。