毒人間コメディ!毒親と毒夫、そして私は末期がん
今世を呪った私の実録と生還劇。末期がんより恐ろしい毒人間の正体!
私は
・家系に癌を患った人は1人もいない、つまり癌家系ではない。
・ヨガインストラクターとして健康体の見本のような生活をしていた。
・セラピストとしてメンタルを整えていた。
・・・にも関わらず、自分の両親と夫の「毒人間ぶり」を見抜けぬまま末期がんになり、とうとう余命1ヶ月の宣告までされてしまった。毒人間とは、相手が癌末期で苦しもうが、ホスピスに入ろうが、その生態を変える事なく毒を撒き散らす非常に危険な生物なのである。そんな奴らと縁を切り、余命1ヶ月から生還し、幸せに生き延びる道をやっと見つけた経緯の一部始終。
第一章: 毒親
第一話「アスペルガーの長男に振り回される両親」
私は4人兄妹の真ん中(兄2人、妹1人)として生まれた。
一番上の兄、裕次は私と7歳年が離れていて、アスペルガー症候群だ。しかしこのアスペルガーは本人が40歳を過ぎてから診断が下ったので、それまでの40年間はいわゆる「普通の人」として生きていた。これはアスペルガーが40歳まで発症しなかったのではなく、先天性のアスペルガーなのに両親の無知により病院での診断をしなかったせいなのだ。つまり、本人はずっとアスペルガーだったのに、世間からの扱いが「普通の人」だったので、そのギャップに本人も周囲も悩み、苦しんだということになる。ぶっちゃけ兄のアスペルガーぶりは相当なものだったので、当然彼の言動・行動を「普通の人」として見てしまうと、そこにはかなりのギャップがある。でも「アスペルガーの裕次」として見ると、当然なんの違和感もないし、彼の行動は容易く理解できるし、尊敬できる部分も多々あるのだ。
しかし、先述した通り彼は40歳まではアスペルガーだと診断されていなかったので、幼少期には普通ではない様々な奇怪(だと思える)行動をしていた。例えば小学生の時、兄はよく母のワンピースを着て踊りながら外に出ていた。そのワンピースとは、昭和ど真ん中のスタイル(肩がふわっとしていて、スカートはくるくる回ったらパラシュートになりそうなやつ)で、色は黒地にカラフルなインコ数羽と、緑の葉っぱが描かれている、とても愉快なワンピースだった。小学生当時、坊主頭でヒョロっと背が高い兄はそのインコを着て、かなりご機嫌なご様子で近所を駆け回り、自分で作詞作曲した「おかぁ〜さん、ありがと〜ぉ、僕のお友達〜♪」と言う得体の知れない歌を歌いながら近所を練り歩いていた。昭和55年当時、LGBTQなどの概念などない世の中で、インコのワンピースを着た坊主少年など想像しただけで奇怪だろう。
それだけではない。ある時には私の幼馴染のタカちゃんの家に勝手に押し入り、タカちゃんのお母さんの手の甲をフォークで刺す、といった犯罪級のことまで成し遂げた。今じゃ大問題だろうが、当時はなぜかスルーされた。(この後タカちゃん一家は無言のまま引っ越した。)それどころか、兄は自分の弟の腕をハサミで刺した事もあった。もちろんアスペルガーの兄にそれらの行動に対しての責任能力なんて全くない。ただ、この時点で普通の親なら「何か変だ」と気づくはずだろうが、上辺だけしか見ようとしない私の両親は、表面的には兄を叱ったり諭したりするものの5分も経てば次の話題に移っている、というその場限りの中途半端な育児を繰り返し続けた。これは現実逃避であり、育児放棄である。つまり、物事に正面から向き合えず(現実逃避)、その解決方法を見出そうという意欲すらない(育児放棄)。こんな中途半端な育てられ方をした子供は、一体どんな風に育っていくのだろうか?つまり、私の両親にずば抜けて欠けているのは「一貫性」という責任感なのだ。この「物事に対して一貫性を持って行動する」という責任感の欠如が、子供のアスペルガー症候群さえも気づかず40年が過ぎていく、という致命的な失態を持続させていたのである。そして両親は、今だにその失態を「失態」として受け入れられないので、何の反省もしていない。詰まるところ何の成長もしてないので、あの時の両親のまま、今も老夫婦として毒を撒き散らしているのである。
両親の無責任さは例を挙げたらキリがない。例えば、兄は写真を撮る時にも一時停止ができず、他人との共存という概念が全くなく、ずば抜けて挙動不審で破茶滅茶で無秩序なので、もちろん成績も悪かった。そんな兄をそのまま受け入れる事ができなかった両親は、兄の就職の世話までし始めた。父は自分の人脈を使い、知り合いの会社に裏口入社させたり、自分が経営していた会社を手伝わせたりしていたが、何をやらせても想像を遥かに超える大失敗を繰り返す兄に、とうとう手が尽きてしまった。そんな父は更に血迷い、迷走し、なんとそんな兄を今度はパイロットにしようと養成学校に通わせたのだ!これには流石に周囲は大反対し、私も冷や汗をかいた。兄をパイロットにしようと張り切っていた父を思い止まらせた決め台詞は「祐次の操縦する飛行機に、お父さんは乗りたいの?」と言う素朴な疑問だった。その問いに対して奴(父)は「俺は絶対に嫌だ」と言い切った。
こんな無責任な人間を私は知らない。父はやはりバカなのだ。
兄はこうして、高いハードルを無理やり与えられ失敗を繰り返すことで自信を失い、何をやってもダメな奴だと自分自身を責め、挙げ句の果てには持病のアトピーの悪化と、その膿が眼球に回ったために失明した。兄がアスペルガー症候群だと分かったのも、ちょうどこの頃だ。兄は既に40歳になっていた。
失明し、アスペルガーだと分かった兄は、心底安心したように私からは見えた。もうこれからは、今までみたいに無理やり頑張って社会に属そうと努力しなくてもいいのだ。できないままで理解してもらえ、受け入れてもらえる。視力を失ったことも「見たくないものを見なくていいんだ」という安堵感が、逆に彼を守ってくれたようだ。こうして兄は周囲や社会からのサポートを存分に受け、ようやくマイペースに、ありのままの自分として生きていく事ができるようになったのだ。
こんな状況になる前に気づいてあげられたら、兄はもう少し違った人生を歩んでいただろうが、これも兄の宿命なのかと私は少々落胆してしまう。なぜなら、兄の奇怪な行動とは裏腹な一面に、辞書を1ページ目から覚える、一度見た映画を初めから最後まで細かく説明できる、などの特技もあり、これらもアスペルガーの明らかな特徴だと捉えることができる。この特技を活かせてあげれたら、どんなに楽しかっただろうかと思うと切なさが込み上げる。私も今では2人の子供を持つ親だ。同じ親として、両親の育児を振り返ると吐き気がする。「人間を育てる」という行為は奥深く、神聖なことなのだ。親が自分の行動に対して責任を持ち、自らの行動を常に振り返り反省し、成長していく事が必要なのだ。つまり自分自身の内面を深めていくことで、相手にも深みのある行動を示していく事ができる。この終わりなき自己愛が他人への態度として現れる。これを「愛」と呼ぶのだろうと私は思う。私の両親には明らかに「愛」が欠如している。自分を幸せにできない人は、他人を幸せにすることなんてできないのである。
「愛の欠如」という問題の他に、もう一つ、両親がこれ程までに現実逃避と育児放棄をしていた理由がある。それは、彼らの特異性だ。
父は、独りよがりで短気で気性が激しく、「昭和の親父」の悪い部分だけを抜き取ったような男だった。当時1LDKの団地に家族6人で暮らしていた我が家は、貧乏だからそうだったのではなく、父の「子供は周りにたくさん人がいる団地で育つのがいい」という独断と偏見で団地に住んでいた。私はそんな暮らしが大嫌いだった。家の中には落ち着く空間はなく、1人の時間など皆無で、部屋は汚く狭かった。父はいつも威張り、横柄で独断的だった。父は帰ってくるとお酒を飲むので、母はいつも料亭のような小鉢料理を最低でも10皿は用意していた。夜はお米を食べない父の空腹を満たすには、そのくらいの量が必要なのだ。ここまで尽くされているにも関わらず、父は気に食わないとチャブ台をひっくり返し、踏んぞり返り、家事や子育てには一切無頓着だった。まるで独裁者が住み着いている家庭環境なので、家の中は常にピリピリした空気が漂っていた。家族みんなが父に気を使って生きていた。
そして、働けど働けど優しい言葉ひとつ掛けてもらえない母は、まるで父の奴隷のようだった。幼かった私からみても母の姿は疲労そのもので、見ているのが辛かったのを記憶している。昭和55年当時は、今のように宅配サービスはなかった。インターネットや携帯電話どころか、電子レンジ、全自動洗濯機、食器洗浄機、クーラーもなかった。ひねればお湯が出る水道も台所にはなかったのだ。その状態で家族6人分の家事をこなすのは、さぞかし大変だっただろうと思う。
普通の6人家族でもこれだけ大変なのに、それに加えて病的に独裁的な夫とアスペルガーの長男を抱えてるのだから、疲れないわけがない。その結果、当然のことながらそれ以外の子供達(もう1人の兄、私、妹)にはかなり手薄になっていた。その中でもとりわけ聞き分けが良く、成績もほどほどで、人当たりも良く、周囲からの評判もよく、手伝いもでき、妹の面倒も見れる私に対しては、安心しきっていたのかアテンションを全く向けていなかった。
どれくらいアテンションが向いてなかったのかというと、高校受験をどの学校にするかの相談などは一度もしたことがなく、全て自分で決めて、自分で手続きをして、自分で合格した。そのレベル感で無頓着だったということだ。
また、印象的だった出来事の一つに、ピアノがある。私はなぜか楽譜が読めなくて、10年近くピアノを習っていたが楽譜を見て弾けた試しがない。耳から入ってきたアイドルの歌は即興で弾けるのに、音符を読んで鍵盤を叩けない。だからピアノの練習ではいつも先生に叩かれたり、罵声を浴びせられたりしていた。昭和当時はそんな事もアリだったのだ。だから私は常に「ピアノを辞めたい」と母に言っていたが聞き入れてもらえることはなく、結局ピアノを習って10年目の発表会で、先生がこれ見よがしに選曲した「メリーさんの羊」を弾く私を見て、母はやっと絶望してピアノを辞めさせてくれたのだ。それくらい母は自我を通し、私を見ず、私の話を聞かず、自分のつまらないエゴを満たすために私にピアノを強制していた。
これが「自信を持てない子供」を育てる方程式だという事にも気づかずに。
つまり、両親の根本的な問題は「子供を直視できない」ということが言えるだろう。子供を自分の所有物ではなく1人の独立した人間として、少しでも真摯に向き合っていれば、兄のアスペルガーには気づいたはずだし、私にピアノを強制させる事もなかっただろうし、進路相談もしていたはずだ。そして、子供を直視できないと言うことは、つまり自分自身をも直視できていないと言うことだから、自分のエゴの欲望を満たすために子供に高いハードルを与え続け、自分のエゴを満たすために子供を使う事になる。すると、それらを達成できない子供は自己喪失になり、自分が何を望むのか、自分は何をしたいのか、自分はどう感じているのか・・と言う根本的な「自分への興味」を失っていくのだ。そのいく末は、チャレンジする楽しさを知らない大人に成り下がる。
この育児放棄レベルの「子供に向き合えない」という両親の壊滅的なキャパの小ささが、私たちの人格を形成していく上で相当のマイナス要因となるのである。
己の愚かさを親のせいにするつもりは毛頭ないが、両親が親としての責任、つまり「一貫性(軸)を持った行動」を私たち4人の子供に対して示してきたのか?という意味では、私は両親に対してため息しか出ないのです。
つづく