「良けりゃなんでもいいのよ」
『左ききのエレン』を読み始めた。
焦燥感が募る。クリエイティブの世界で生きていくのってこういうことなのか、と思わされる。だってわたしには何もない。
良いものを良いと見極められる目も、自分が良いものを作る力も、ない。
見極められなければ、編集なんてできない。
(これは、よくない開き直りだな…。)
天才だな、と思う人の一人にダンサーのrikoちゃんがいる。
彼女は圧倒的な努力の上に、あらゆるクリエイティブの目利き力を手にしている人なのだけれど、いつも彼女は「良けりゃなんでもいいのよ」と言う。
これは、良いアウトプットであれば表現の種類は問わないという意味で、「見えてる」人だからこそ言えるセリフだと思う。わたしには、これがわからない。
良いものが見極められないのは、単純な知識不足もある。
過去のことは、全部過去においてきて清算してきたはずだった。
けれどもやっぱり、自分の好きなものを公表したら「こんなものが好きなの?」と言われるかもしれない不安がつきまとっていた過去や、自分がどう思うか?よりも「周りはどう思っているんだろう?」が先に気になる「周りの評判ばかり気にする癖」が完全に抜けきってはいない。
自分が良い悪いを見極められることよりも、周りがどう思うか、そして周りにうまく合わせて嫌われないようにすることばかり考えてきた20年間を、完全には払拭できていないのだ。(一番酷い時は、怒られないために「頑張ってるように見せること」を頑張っている時期があった。地獄だった。)
過去に拘泥してはいけない。過去は過去でしかない。わたしは今を生きている。
そんなこと、とっくにわかっていて頭の中では整理がついているというのに、まだ影がつきまとっている。
いい加減、「自分がどう思うか?」を最優先にしなきゃ。嫌われることなんてどうでも良いことなのだから。
それから、「自分がどう思うか?」を最優先にした時に、真っ先に出てくる「良いのか悪い(つまんない)のかわからない」という「わからない」という感情に決着をつけなきゃ。それは思考の放棄でしかない。
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今週は仕事でもその他でも色々あって非常に情緒不安定な日が続いていて、もう無理、もうダメ、死にたい…を毎日ループしていた。(死にたい、というのはもう口癖になってしまって、わたしの「死にたい」は「ちょっと一日中何も考えずに眠っていたい」ぐらいの意味なのだけど)
ああもう無理、と思った時に必ず連絡する友人がいて、今回も例に漏れず連絡してエネルギーを補給してもらった。
最愛の友人は遠方に住んでいて、飛行機でないと東京には来られない距離なので、だいたい月に一回くらいのペースで電話をしている。たいていの場合、わたしばっかりが「あれもこれもどうしよ!無理だよ〜〜助けてほんとに〜〜〜」と散々言い散らかした後、「まりーは大丈夫!!」って太鼓判を押してもらって、「いつもありがと、ほんとに好き!!!」で3〜4時間を終える。
そんな彼女も今月東京に来る予定があるらしく、約半年ぶりに会えることになった。その日までは、まだもうちょっと頑張れそうな気がする。約束があると頑張れる、ってこういうことだなあ。すきなひととのそういう約束、いっぱい作っていこ。
やっぱりわたしは、すきなひとやものに囲まれて生きていきたいのだなあ、と改めて思った夜でした。おやすみ。