居場所の確保と自己目的化問題
今季2度目の風邪を引いてしまった。
メンタルはそこそこ強い方なんだけれど、どうも身体はそんなに強いわけではなく。
寒さにも弱いので、毎冬2〜3回は風邪を引いてしまう。
今年はちょっとそのスパンが短いなあ、と心配になったり、している…。
(▼2週間前も、風邪のこと書いてましたね…。)
先日、古市憲寿さんの『絶望の国の幸福な若者たち』を読み切った。
去年、社会学を専攻している人に出会ってから時々古市さんの本を読んでいて、早く読みたいなあと思っていた。
これは古市さんが26歳の時に書かれたもので、今のわたしと同じ年齢で、こんな風に分析できるのがすごいなあと思って手に取ることを決めた。
「若者」と「居場所(コミュニティ)」は、この10年ぐらいずっと自分の中でキーワードとして念頭に置いていて、薄く追いかけているテーマでもある。
その中でも、「共同性」が「目的性」を「冷却」させるというフレーズが気になった。
「共同性」が「目的性」を「冷却」させる
"集団としてある目的のために頑張っているように見える人々も、結局はそこが居場所化してしまい、当初の目的を諦めてしまうのではないか。
どんな過激に見える集団であっても、そこが「居場所」になれば当初の過激な目的は「冷却」されてしまう。もしも「居場所」が見つからなくても、つかの間の「祭り」を繰り返すだけなので、それは社会にとって大きな脅威にはならないだろう。"
要するに、何かやりたいことがあって集団を立ち上げたり集団に属したりしていても、活動しているうちにその集団が居場所となって、そこでの関係性や地位、相互承認されやすい環境に安住してしまい、本来の目的が達成できなくなる(目的を見失ってしまう)ということだ。
例えば、メーデーに参加するような労働問題を扱う人たちでさえ、「デモをみんなで作るってこういうこと」「俺の居場所はこういうところを求めていた」と言っている現状がある。
社会性の塊のような運動に携わる人たちにとってすら「居場所」や「相互承認」が大事なのだそうだ。
これを読んで真っ先に思い出したのが、朝井リョウさんの『死にがいを求めて生きているの』に登場する、常に生きがいを求めて行動し続けるも、次第に手段と目的が入れ替わってしまう雄介のことだ。
ジンギスカンパーティを復活させようとしたり、自分は寮生ではないのに寮の自治権を主張した上にリーダーであるかのような振る舞いをしたり…
「夢中になれる活動で大きなことをしているように見せられ、なおかつ一緒に活動してくれる仲間がいる」状態に夢中になっては、冷めた途端にまた別のやりがいを見つけ…という"自分探し"を繰り返している人物だ。
「イタいなあ…」と思うだけではなく、自分も思い当たる節があるなあ…と傷を抉られるような描写があった。
居場所を求めて飛び込んだわけではなく、目的を持って飛び込んだ学びの場において、いつの間にか得られた"居場所"に安住し、本来の学びが薄まってしまっている現実がわたしにも、ある。一度や二度ではない。
心理的安全性が担保された、わたしがわたしらしく居られる居場所的コミュニティも、必要である一方で、それが学びの場である限り本来の目的を見失ってはいけないと思う。
仲間がいることによって学びが深まることもわかっているので、そこはバランスを取りつつ、自戒を込めて。
とはいえ、講座やサロンなどを通して仲良くなった共助的コミュニティの皆さんには、本当に本当に感謝しているので、これからも仲良くしてもらえると幸いです。
▼ノートの切れはし 先週のまとめ