自在なる前衛の天才俳人攝津幸彦の世界!
☑攝津幸彦の俳句には「自在」というイメージがあります!
野に咲く小さな花も誰にも知られずに刻一刻と存在を更新している。こんなテンションの高い認識を、まるで写生句のような実在の感触とともに描いた俳句です! 咲いている1本の花がゆっくりとからだを変化させるさまを描いている俳句です。ディズニーアニメのように動かないものを動かすファンタスティックな魅力と、写生的に現実を描写したような落ち着いたたたずまいと、生命の神秘にふれるような哲学味のブレンドと形容したくなる、自在な印象をかもしていると思います!(『鳥屋』所収、『攝津幸彦全句集』(1997年、沖積社)p203から引用)
☑それは気づくと俳句がギャグをはじめているような自在さです!
アニメのタイムボカンシリーズでも有名な語呂「驚き桃の木山椒の木」をもじったもの。びっくり仰天する桃の木に存在感があります! 句意は「驚いたなあ、桃の木が黄泉(よみ)の木とまじっている」というところ。語呂あわせで黄泉の木とまじってしまった哀れな桃の木の姿を想像させて秀逸な一句です(あと『コォォォォォォオッ』とかウロが人面で叫んでいそうな黄泉の木も想像します)。ギャグもゴスも猟奇も奇想もまとめて軽々と詠んでしまうような自在さは攝津幸彦の特徴でしょう。(『與野情話』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p100から引用)
☑また、ギャグなのかいい話なのか不明なこともしばしばです!
千手観音の普段づかいの手の動きを想像させるシュールな一句。どこか吉田戦車の漫画にも似た印象と、ありがたい説話を聞くような印象とが同時に感じられて素敵です! 千手観音が「普通」という時点でギャグな気もしますが、沐浴を行うことの中に仏教的な悟りも感じるし、やすらぎの時間が流れていることも想像します。とはいえやっぱり、多すぎる手を使いからだを洗う千手観音のイメージは面白すぎるように思います!(『鸚母集』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p284から引用)
☑かと思うと、キバツですが不思議なほど美しい句を発見します!
情景は奇抜ですが宇宙とセットで咲く「冬の梅」が美しい一句。「はみでて」なので、前ヘ出る感じの美しさです! なんで梅の花がはみでたのかは不明でシュールですが(宇宙からはみでているなんてどういう状況でしょう!)、『AKIRA』『彼女の想いで』の漫画家大友克洋に描いてほしいような、宇宙的な美と日本的な季節感を感じさせる情景とも感じられます!(『鳥屋』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p215から引用)
☑考えれば不可解な美しさが攝津幸彦の俳句の特徴かもしれません!
句意は「誰かが輪廻をしているその瞬刻、いまだ現世にとどまる腰が美しい」というすごい感じ。「ゝ」の踊り字が輪廻する腰と見えるという、読みたどる文字さえ転生させるすご技が炸裂しています! 何が描かれているのかはよく分かりませんが、T・S・エリオットの『四つの四重奏』の冒頭のような存在のハイテンションな運動っぷりが美しい俳句です。「つ」音がつづきながら文字のかたちを変えていくさまが印象的。攝津幸彦は、俳人が一生のうちに5~6句読めるかという名句がそなえたレベルの「文字自体も句意と渾然一体となっている」境地を、意図的な頻度で発表していた俳人と評することができるかもしれません。(『鸚母集』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p298から引用)
句意は「ある感情の高まりがある、海を泳いでいた少年は陸地へ上がった」という感じ。青春のやるせないドラマを推察させる内容ですが、少年と海だけでできている感情のセカイが美しいと思います! 「感情」「少年」「海」のそのほか一切が不明でもなぜか美しいと感じさせる俳句です。ところで、俳句では切れ字を用いる場合特に「上5=中7下5」という構造をもつので、この俳句は「少年が海から上がった、それが感情というものである」という含意をあわせもつでしょう!(『鳥屋』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p179から引用)
☑攝津幸彦の代表句は2つだけ紹介します!
階段にさしてゆっくりと近寄る昼の日光を濡らすと捉えた句。あたりまえに毎日あるはずの光の到来を奇跡だと思う。こんな心さえ感じる魅力を備えた作品です! 濡らすがごとき光の昼が「階段を~来て」という擬人的表現で生きている俳句。階段をやってきてこちらに向かって昼が立っているような印象さえここには含まれるでしょう。光というものの妙なる個体化に成功したような魅力を感じます!(『鳥屋』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p182から引用)
仁平勝氏が漫画「ねじ式」とこの句の関連を指摘していてうなりました。建物の間に機関車が登場し、そして句の濡れるような夜や影がつげ義春氏の黒とすごく合うと思います! 私は縁日から連れてこられはじめて路地裏と遭遇した金魚が、ビニール越しにそれを見た光景としてこの句を愛唱しています。「露地裏を夜汽車と思ふ」の夜道のパースが機関車にみえるという奇想が素敵ですが、「金魚」も含め水イメージが1句に浸透していることもたまりません!(『陸々集』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p335から引用)
☑同じ前衛俳人たちの絶賛も少しだけ紹介させてください!
攝津幸彦が俳句を理解しているのは、それが五七五の音数律からなる定型詩だということだけである。その定型のルールを守りさえすれば、どんな言葉でも俳句形式に受け入れられる(『露地裏の散歩者』(仁平勝著、邑書林、2014)p12から引用)
あらゆる言葉を俳句にしてしまう攝津幸彦の自在さについて評論している箇所です。この『露地裏の散歩者』はすごく面白かったです!
作品に多少の出来不出来があるのは攝津幸彦とて例外ではなかろう
(『現代俳句文庫22 攝津幸彦句集』(ふらんす堂)p103、高原耕治「攝津幸彦、或いは誤解の万華鏡の誤解」)
このコメントは私にとって大共感の攝津幸彦論です。作品の完成のし方が不思議すぎて、彼の俳句の何が分かるのかと一瞬とまどいつつ、いやいや同じ人間だし目の前の俳句の善し悪しは分かるぞと思い直して攝津俳句と向き合うような感じに勝手に大共感です。ところで、このコメントが解説(の一部)の『攝津幸彦句集』は、このまとめで引用したほとんど全ての俳句が乗っている(「宇宙より~」を除く)格好の攝津俳句の入門です。ふらんす堂の再版を切に願う次第です!
☑最後は大好きな句の紹介です!
句意は「サーカスをする子どもたちが横浜の雲となっている」という不思議な感じ。この横浜の空のおだやかさが本当に好きで、この句を見て心が和らぐことがあります! 高畑勲監督のアニメみたい! 好きすぎて冷静になれないですが、言葉のサーカスでひとつの風景をかたどる作品だと思います。「サーカスの」という華麗なナニカが開始されそうな上五から、「子等横浜」の中七の横棒の多い感じの自然な結合で子どもたちの変身を後押ししつつ、「雲」の下五で「子等横浜」という漢字の形象をほのかにイメージに定着させた言葉の空がここにあります。どことなく「青」のイメージがある横浜に子どもたちの白が加わって美しいです!(『鳥屋』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p200から引用)