小説「移動式古書店主の思い出」

 ぼくは中学一年のころ移動式の古書店にであった。移動式の図書館は以前きいたことがあった。図書館のない地域を巡回する書棚をのせた車のことだ。こちらは書棚をのせているが、そこにはぎっしりと売りものの古書がつまっている。

 ぼくにとってどちらが魅力だったかはいうまでもない。当時何度もねだって買ってもらったマウンテン・バイクの一番の使い道は3駅はなれた駅前の古書店に行くことだった。そうして、棚をなめるようにみて小銭で買える古書を選んでいた。

 そんな古書ファンに入門したての中学生にとって、移動式図書館というのは夢の実現だった。古書店が出向いてくれるのだ。とはいえ、この店にも不満がないわけではなかった。店主がすごく親切に話しかけてきまりがわるかったのだ。

 一般に客に話しかける古書店主はめずらしい。移動式であることで興行のように客を集める必要もあったかもしれない。ぼくの選んだ本とか、乗っている自転車のこととか、「いい趣味だね!」という感じでいつも話しかけてくれた。

 あるとき、ぼくがスタンダールの『恋愛論』をこっそり買おうとすると、真顔で「きみは恋をしているのか?」ときいてきた。どう返答したか覚えていない。しどろもどろだったはずだ。でも彼が続けて言ったことはよくおぼえている。

「恋心をつたえないまま大人になっちゃいけないよ。そうすると自分が変われないままで大人になってしまうんだ。だから、自分の気持ちをどうあっても伝えたほうがいいんだ。」彼は重々しく断言して、そばのマンションを見上げた。

 その眼をぼくはよく知っていた。ぼくの好きなひとの家をみあげる目とおんなじ渇望をかんじた。この予想はおそらく的中していただろう。ある日彼は目の前を通りかかる子どもを連れた女の人に話しかけた。「〇〇さんっ、だよね?」

「あら、あなた……」
 絶句する女の人の前で店主はフルネームでゆっくりと名前をいう。女の人はきゅうに親しみのある反応をしだして「奇遇ね」「これが古書店なの?」などと話している。その間中店主の顔は真っ赤だった。シャイな中学生のようだった。

 ぼくは本棚に目をやりながら二人の会話をきこうとした。しかしそれはすぐに終わった。「行かなきゃ」と女の人が言い、「偶然会えてうれしかった」とつけたした。店主はかすれた声で返事する。「ぼくも嬉しかった、ありがとう」

 そして、これがぼくが移動式古書店を見た最後の日だった。女の人は見かけたが古書店が巡回することがなかった。ぼくは、店主が会いたい人のためにこの土地で働いていて、これ以上のストーカーにならないよう必死に自制したのだと直観した。

 いまは別の見方もしている。大人になったいまぼくが初恋のあの人に再会したなら。その人と「会えてうれしかった」という一瞬を過ごせるとしたら。こんな奇跡みたいな時間に、これ以上のできごとや思い出などはきっと必要ないだろう。

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