DSDの旅②:続・鍵盤楽器
☆プロローグ
DSDには固有の素晴らしさがある。しかし、種々の状況から疎んじられており、DSD録音をしていたレーベルもDSDで録らなくなってきた。例えば、大元ともいえるSONYや、PENTATONEである。オーディオマニアもあまりDSDを聴かないようだ。
レコードを除くディスクメディアは音楽も映画も軒並み低調で、当然であるがSACDはそもそも新譜がでない。タワレコやHMVのサイトを覗けば、いくらも新譜があるじゃないかというかもしれない。しかし、それらの大半はリマスター音源であって、半世紀前に制作されたアナログテープから起こしたものである。
DSDについて語ることは、もはやそれ自体がアナクロなのだ。オーディオマニアに私のシステムでDSDの音を聴かせると、DSDって良いんだね、とくる。
DSD, adieu?
DSD録音の新譜はクラシックが多い。なぜならクラシック好きのする再生音だからだ。私はそんなに足繁くコンサートに行くわけではないが、会場に漲る空気感に適しているのはDSDの再生音である。また、これは結果論だが、DSDの編集の難しさは、レコードのダイレクトカット盤の作製にも似た、1発録りの緊迫を録音の場に課す。このような一期一会と化したレコーディングが、クラシックに相応しく、JAZZにも相応しいという主張をするのに、わざわざ山本剛の言を引用する必要などなかろう。
今どき、日本画家たちは岩絵具を紙本の上に、まるで油絵のように、厚塗りする。失敗したら、上塗りすればよい。その昔、日本画家たちは絹本の上に、墨で線を引いた。失敗したらおしまい。これは、古風な精神論に聞こえるだろうが、そうではない。この緊迫が圧倒的な技術力を養成する。技術がなければ絹の上に永遠の線を踊らせることは、ただただ、不可能なのだ。
☆大矢素子『オンド・マルトノ作品集』、DSD256
オンド・マルトノとはモーリス・マルトノという電気技師が1928年に発明した電子楽器である。ondeというのは波なので、オンド・マルトノ (Ondes Martenot)は「マルトノ氏による電波」という意味である。
私は①ART INFINI(アールアンフィニ)というレーベルから出ている市橋若菜さんの『オンド・マルトノの世界』のⅠとⅡのSACD。また②ONDINEというレーベルから出ているハンヌ・リントゥ&フィンランド放送交響楽団によるオリヴィエ・メシアン『トゥーランガリラ交響曲』のSACD。そして、今回の③大矢素子『オンド・マルトノ作品集』のSACDを以前から愉しんでいた。それ以外は聴いたことがないので、オンド・マルトノのPCMを聴いたことが私はない。
①と②はサラウンドである。③は2chのみ。SACDのDSDなので、これらはどれもDSD64相当のものと思われる。PCオーディオを始めることに決めたのは3カ月前だが、その時から大矢素子『オンド・マルトノ作品集』がDSD256で存在していることを知っていたので、どきどきだった。良かった。まずまず良かった。しかし、SACDをサラウンドで再生するならば、サラウンドのほうが音楽への没入感で明らかに勝るのである。これはサラウンドをやり込んで聴き込まないと分からないことだが、サラウンドはそのシステムの設置された部屋を音楽空間に丸ごと変える能力が極めて高い。後ろからの音を「アンビエンスに過ぎない」という人がいるが、アンビエンスは上級者のサラウンドシステムにおいては音楽のオーラauraとなるのである。サラウンドの本質がサイドやバックに割り当てられ、2chが及ばない位置から音声を出すことだと思い込んでいる人が多い。後ろから音がするなどというのは、音楽においては、おまけだ。
今、強力なPCに強力なDACを得て、パワーアンプをモノラル化した。クロストークを排したチャンネルセパレーションに基づくステレオ再生を実現するにあたり、もう少しというところまで来た。そこで大矢素子のオンド・マルトノのDSD256を改めて試聴した。サラウンドのことを振り返る必要はもはやない。
録音はキング関口台スタジオで行われた。オンド・マルトノはスピーカーを3つ4つ持つわけで、煎じ詰めれば、空気録音、ということになるのであろうか?驚愕である。ハマーン・カーン?いや、ほとんどゴーストのように、大矢さんが空間の奥の一角に座って手や足を動かしいるのが<<見える>>。その大矢さんの前を、おそらくリングを使ったグリッサンドなのだと思われるが、エネルギーが唸りながら光りを発散し、彗星のように尾を引いて部屋の端から端に伸びていき、爆発する。ほとんど鬼火である。この長く長く持続する鬼火の移動する音やポルタメントの移ろいを表現するのは、やはり1bitのDSDこそが相応しいのではないかと思う。PCMの戯画的な音像は時に「エッジのたった」という賞賛を受けるが、2次元なのである。空間性のあるように思える再生であっても、2次元のパッチワークに思えるのだ、DSDと比較するならば。大矢素子が自身の周囲に召喚するオンド・マルトノの怪しく発火する音像の端には、切れ目のない無限の階調が存在している。
このような演奏がDSD256となるというのは、DSDのレパートリーを考慮するならば奇跡であろう。大矢さんに作曲家たちがオンド・マルトノの曲を書いてくれるといいのだが。またキング関口台で鬼火を出してほしい。ソロで。
このアルバムは佳曲揃いであるが、1曲目の池辺晋一郎『熱伝導率 オンド・マルトノのために』はオンド・マルトノのソロで、幽玄の境地に至る。実相寺昭雄『D坂の殺人事件』(1998年)の劇中で使われた。ちなみに、この映画は江戸川乱歩の無数にある映画のなかでも特筆すべきものである。実相寺さんのフィルモグラフィのなかでも特筆すべきなのかもね。atg時代のものとは比較にならない出来でしょうな。
☆武久源造『J.S.バッハ ゴルトベルク変奏曲」いわき芸術文化交流館アリオス所蔵16フィート弦付きチェンバロによる』、DSD64
いわきアリオスという福島県の施設の学芸員は、古楽コンサートを開催できるようにと、ポジティフオルガンと共に16フィート弦を持つジャーマン・チェンバロも導入することを決断したのだという。
さて、武久源造さんが16フィート弦のジャーマン・チェンバロで、ゴルトベルク<<変奏曲>>を弾くのをワンポイントマイクで、DSD録音、されたわけである。レコーディングはALM RECORDS(コジマ録音)である。このDSD64のアルバムのroonでのダイナミックレンジは、√4。前回の記事で紹介したマイスターミュージックによる小林道雄氏のDSD256は、√3であった。チェンバロだからなのか。そもそもゴルトベルク変奏曲の全曲アルバムはダイナミックレンジが低いのか。分からない。私のストレージには他にはオラフソンの演奏があるが、彼の他のアルバムよりもゴルトベルクは低い。レンジが低いからダメなわけではない。しかしダメだと思うものは低いのが多いのである。
しかし、このジャーマン・チェンバロは非常に多彩な音色を持ち、武久源造さんは変奏を重ねながら、同じ楽器とは思えないほどの音色の幅を取り出して見せるのである。すすきの海原のごとき秋の金色はこれがチェンバロの光だと思わせるが、その明度もまた変奏曲で移り変わる。また、ある変奏では地獄の底で死に直面したオルフェウスのハープとでもいいたくなる、乾いた音をだす。最も素朴な琴の音。武久源造さんのタッチは軽やかで玉虫色から冥界の音色まで、変奏で戯れる。曲と楽器と奏者の幸せな関係が成立している。最後は円環の綴じ目のアリアのあまりの静謐さにむしろはっとするのだ、終わってしまうのかと。
見事である。DSDだから?、、、分からない。DSDの必然性は不明だ。しかし、祝福すべきゴルトベルク変奏曲であるように思える。残響に羽はついていない。パワーアンプをブリッジしていたから失われたのか。それともマイクなのか。DSD64。規格としては最も軽いDSDだ。ぜひ、ハイレゾリューションのネイティブDSDレコーディングを新譜でやっていただきたいところだ。
☆まとめにかえて
小林道雄氏が12月15日にいわきアリオスで、無論、ジャーマン・チェンバロを使ってゴルトベルク変奏曲の演奏会を挙行するらしい!このチェンバロは上で紹介した武久源造さんが多彩な音色を引き出していたように、楽器自体が多才である。ということは、奏者の違いをさらに引きたてるのだろう。当日、レコーディングが行われるのかは知らない。今年の寒さは厳しい。まずは無事に行われることを、次に演奏の成功を祈念する。