「常識」とは何だ
日本に限らず、どの国の人も「常識」というものに囚われている。
日本を出てから、いかに自分自身が「常識」というものに縛られていたのかを知った。
クリスマスプレゼント
私は、大学生の頃、友人から「彼氏からクリスマスプレゼント何もらったの?」と聞かれるのがいやだった。
彼女たちが期待するものは、ジュエリー類だ。
例に漏れず、私もそういったものを期待していた時期もある。
でも、自分のパートナーが全くそういったものに興味がないこともある。
そして、彼らは彼らなりに考えてプレゼントを贈ってくれている。
なのに、当時堂々と答えられなかったことを申し訳なく思っている。
回答を濁すと、そこから友人の「自慢」が始まったりする。
悪気はないのだろう、ただ、マウンティングを取ってくる人もいた。
それはもはや「友人」ではなかったのだろうが。
誰かが創った「当たり前」
私は雑誌を読むのが好きであったから、
クリスマスのイベントが近くなると、
女性誌には必ずジュエリー類の宣伝を兼ねた服装の特集や、
「彼氏におねだりしたいジュエリー」特集が載っていた。
今考えれば、雑誌なんてスポンサーのために特集を組んだりするのだから、くだらないと思うが、
当時はクリスマスにはそういったものを贈るのが「当たり前」のような気がしていた。
今の10代であれば、雑誌ではなく、インスタなどのインフルエンサーによって「当たり前」や「憧れ」が作られているのかもしれない。
クリスマスは「家族の時間」
翻って、スペインはどうであろうか。
そもそも、クリスマスは「家族」の時間である。
もちろん、彼氏彼女やパートナーにプレゼントを贈ることもあるし、
日本のようにジュエリーを贈る人だっている。
ただ、どちらかというと、もっとカジュアルな贈り物をしているようだ。
温かい部屋着とか、もこもこ靴下とかね。メーカー問わず。
最初にこっちの友人からその話を聞いたとき、軽くショックであった。
なぜなら、それがこっちでは「当たり前」であるからである。
私は、いかに狭い「当たり前」という考えに縛られていたのか、
目が覚めたような気持ちになった。
みんなが悩みやすい「常識」
その他にも、上司が帰らないと帰れない、というのもこっちではナンセンスである。
残業をしないといけないほど仕事が出来ないのか、という風に捉われかねない。
嫁がパートナーの両親や家族の世話をするのが当たり前、という風潮も、
こちらでは摩訶不思議現象である。
スペイン人の友人曰く、「自分の親なのに、なんで奥さんが主体なの?」とのことだ。
もちろん、文化の差もあり、考え方に違いがあるのは仕方ない。
海外が最高とか、そういうことを言いたいわけではない。
日本人としては、住むなら日本の方が最高だと思う。住むだけなら。
要するに、日本では当たり前のことが、別の国だとそうではなく、一定期間日本を離れてみると、凝り固まった「価値観」や「常識」に柔軟性をもたらしくれると思う。
相手も自分を受け入れること
私が海外に住んで一番良かったことは、相手だけでなく、自分自身も「許容」できるようになったことである。
定職に就かなければ一人前扱いされない、何歳までに結婚しなければならない、何歳までに子供を産まなければならない、男性だから家族を支えて当たり前、家事育児は女性が得意で当たり前、そうした、いつしか誰かが言っただけにすぎない、一般化された「理想像」を自分で勝手に押し付けられたように思っていた。
でも、別に受け取らなければいいのだ。
どんな価値観を持とうがそれは自分の「自由」である。
故意的に誰かを傷つけるものでなければ、自分の考えを言って離れていく人を追う必要はない。
「常識」とは、様々な経験を通して自分で作り上げているものにすぎない。
もし、今自分の中の「常識」に縛られて苦しんでいるのなら、
一度その「常識」はなぜ生まれたのかを考えてみると良いと思う。
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