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わが辞書人生 [第2回]

大井光隆(元英語辞書編集者)

辞書の書き手に「辞書作りの本当の功労者は辞書編集者である。この人々は知見と経験、情熱と責任感の塊である」とまで言わせる辞書編集者。その辞書編集一筋40年余りの‘職人’が語る、連載の第2回です。

辞書の原稿について

辞書の原稿はどのようにして集めるのか? これはまさに大仕事です。膨大な量ですから、力と経験のある先生方に分担で執筆を依頼するわけですが、これがまた大変です。出来のいい原稿はなかなか簡単には集まりません。原稿が届いたら、まず編集部でチェックします。場合によってはリライト(清書)をしなければなりません。

そもそも辞書の原稿って、どうやって書くと思いますか? 

他社の辞書の丸写しなどというのは、もちろん「最悪」です。例文(用例)はどうやって作るのか? これも大きな問題です。ネイティブでない日本人が勝手に例文を作ることはたいへん危険です。英語の先生の中には、自分の読んだ小説などの中から辞書に使えそうな例文を見つけ、それをカード化している方もいましたが、これはごく少数派です。結局、英米の「英英辞典」の例文が最大の手がかりでしたが、そっくりそのままの借用を極力避けることも編集部の重要な仕事でした。しかし今では、自前の巨大な「データベース」を持った辞書専門の下請け会社なども現れ、辞書編集の様相はすっかり変わってしまったようです。

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辞書編集者の資質?

辞書編集者は原稿に不適切な例文や説明などがないかどうか、常に目を光らせていなければなりません。したがって、「几帳面」であることは必須の条件です。性格的には、「ネクラ」で「神経質」な人のほうが向いています(笑)。 ともかく、この作業が終わって、原稿はやっと印刷所へ渡るわけです。「言葉」が好きで、根気と忍耐力がなければ続かない仕事ですね。

校正おそるべし!

原稿とゲラを照合して文字の誤りなどを正すことを「校正」と言います。現在はコンピューターがほぼ正確に打ち出してくれますから、文字の誤りなどはごく少なくなりましたが、活版印刷の当時は、どこにどんなミスプリント(「誤植」とも言います)がひそんでいるかわかりませんので、細心の注意が必要でした。「校正記号」というものがあります。

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上は「欠けた文字」や「不良文字」、下は「逆さ文字」の訂正に使います。なぜ文字が欠けるのか、逆さになるのか、おわかりでしょうか? 前回書きましたように、活版印刷の原理は「ハンコ」だったからです。ハンコを天地逆に押せば文字は逆さになってしまいますね。
ところで、校正なんて文字が正しく印刷されているかどうかをチェックするだけだから簡単じゃないか、と思われる方がいるかもしれませんが、とんでもない誤解です。「校正おそるべし」という言葉があります。これは「後生畏(おそ)るべし」という、『論語』にある孔子の言葉をもじったシャレですが、それほどミスプリントは発生しやすいのです。人間の集中力なんて、すぐに途切れてしまいますからね。世の中には、「辞書に出ているから間違いない」と思っている人も多いようですが、これは「神話」です。極端な言い方になりますが、辞書は文字数が圧倒的に多いですから、誤植やミスもそれだけ多いのです!


「聖書」にもミスがあった!

余談ですが、あの「聖書」の英訳にも重大なミスが発生した事件があります。1631年の欽定訳聖書で、「モーセの十戒」中のThou shalt not commit adultery.(汝、姦淫するなかれ)という節のnotが抜け落ち、Thou shalt commit adultery.(汝、姦淫すべし)として広まってしまったのです。この聖書は「姦淫聖書」として有名です。

次回は、辞書を「監修」してくださる先生方のことをお話ししましょう。





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