漠景

 物心がついたこ頃から、世の中で起こることを他人事のように思っている。
 歳上の友達が幼稚園や学校に通っていたり、兄や姉が受験勉強をしていたり、双子の片割れがバスケットボールを始めたときも、何か違う世界の事のように思っていた。
 自分はと言うと、兄と口喧嘩をして泣かされたり、姉の耳かきに大人しく従ったり、部屋を散らかして父に怒られたり、買い物に行く母に何をするでもなく付いて行くことが己の定位置、誰かが定めた在処のように思えていた。
 こう書くと気楽な人間に思えてくるが、実のところあったのは焦りである。
 やがて幼稚園に通うようになり、小学校に通うようになり、自分1人で出かけるようになり、友達が出来て、誰かとかけっこで競うようになり、ドッチボールをするようになり、テストを受けるようになってゆく。
 いつだって形だけ真似ているような心持ちだった。
 誰それはかけっこで1番になるが、自分はそうではない。誰かは国語のテストで良い点を獲るが、自分はそうではない。あの子はドッチボールで沢山当てるけど、自分は当てられる側の人間である。
 誰かがそう決めている。そんなふうに僕は、己の遅れさえも何か漠然と眺めていた。
 鮮明に覚えている。小学校4年生の頃、双子の兄と友達とで遊んでいた。当時、インターネット上で素人が作ったアニメが流行っていた。
 それまでは自分でキーボードを入力出来なかったので父や母に頼っていたが、その日兄は慣れた手つきでパソコンを使った。
 兄だけではない。友達も皆んな、当然のようにパソコンを操っている。
 キーボードの入力方法を知らなかったのは僕だけだった。
 焦った。怖かった。思えばその頃から、僕は僕の置かれている状況を知ったように思う。
 皆んな皆んな、進んで行く。当然のように。そこに迷いなんてないみたいに変わって行く。
 そして僕はその光景を、ただ漠然と眺めている。誰かが僕をそう創ったような気持ちで。

 大人になった。結婚した友人、転職した友人、親になった友人、独立した友人。様々ある。
 誰も彼もが自分を持って、自分の意思で変化して行く。日々を歩んでいる。
 迷っただろうな、苦労したろうな、でもきちんと生きてて偉いな。そうなふうにして今日も僕は、誰かが定めた在処で彼らを眺めている。

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