ライブ日記 2/23
狂気を英語でLunatic【ルナティック】と言うらしい。語源はまさしく月、ルナである。
なんでも昔から月は人を狂わせるとされて来たそうで、満月の日には交通事故が多い、と言うのはよく聞く話である。
半ば迷信めいたこの話はあながち馬鹿にできない。月の満ち欠けに追従するようにして生を営む生物は珍しくなく、特に海には月のサイクルと共に循環する生命が実に沢山あると聞く。
潮の満ち引きも、月の引力によって海が引っ張られる事で生じる現象だったはずだ。
吉原幸子さんと言う詩人が詠んだ月に関する詩に印象深いものがある。
"月の引力がこんな大きな海をひっぱるほどなら、月夜にはわたしたち少しずつ、軽いのかもしれない"
また、かつて愛読していた作家は月と太陽を負と正に転換してこんなことを書いていた「幸福よりも不幸の方が、少しだけ引力が強い」
人の身体は7割くらいが水であるわけだし、なるほど月の満ち欠けによるなんらかの影響で人が狂っても不思議はない。
村上 達郎
2月23日。この日僕は東京のライブbar、新代田クロッシングにて開催されるイベントに参加した。
鴉の近野淳一さんや、我らが松山晃太さんらによる弾き語りライブである。凄い。今書いてて改めて思ったけど凄い。これでお値段ドリンク込みで3,800円。怖い。演者の方々は主催者に弱みを握られているのかもしれない。こわっ。
僕のお目当てはもちろんのこと松山晃太さんである。言わずと知れたBYEE the ROUNDとGROUND FAMILY ORCHESTRA のボーカルである。
松山さん、歌が上手いのは兼ねてから存じ上げていたが、今日は初の弾き語りイベントでの拝聴だったので改めて度肝を抜かれてしまった。
この人の声は聴こえてくると言うより、香ってくるとか、吹いてくると言う印象がある。こちらの胸中にずしりと響く重さを持ちながら、しかし風のように吹き込んで、香りのように漂い柔らかな余韻を残す。それが堪らなく心地良い。
僕はライブでノってくると下を向くクセがあるのだが、そうして聴いてみるとバンドの音やボーカルの歌がライブハウスに満ちてゆくようでとても良い。音を浴びている感が増すのでおすすめしたい。
この松山晃太というとんでもボーカリストの場合はライブ会場の枠を越えて広がってゆく。スケール感が圧倒的なのである。
僕が愛してやまないボーカリスト、古川貴之をして「化物」と言わしめる技量の高さは弾き語りでも健在。むしろ、ギターと声のみで織りなされる分より剥き出しであったようにすら感じる。
もはや松山晃太と言う人間、と言うより松山晃太と言う楽器、人外の何かだと言ってもらった方が腑に落ちる。
さらに、近野淳一さんと言えばかの鴉のボーカルである。9年くらい前に大阪で最愛のTHE PINBALLSと対バンして以来の近野さんの歌、それはもうめちゃくちゃ楽しみにして参戦した次第である。
鴉、とても懐かしい。僕が小学生か中学生の頃に流行ったテレビドラマの主題歌を担当されていて毎週のように聴いていた思い出がある。
その声は衰えを知らずあの時のまま、否、あの時からさらに洗練されてこの日に響き渡っていた。
ハスキー寄りで、高音にキンっと伸びるような独特の声色。誰もが一度聴けばたちどころに近野淳一を叩き込まれるあの歌声。言うなれば、切れ味を持った声。
恐らく50人に満たないであろう観客の前でハイボールを呑みながら楽しく愉快に仕上がってゆくステージはしかし、その圧倒的な技巧によって荘厳ですらあった。
傍でステージを見ていた松山さんが「うま過ぎる」と呟いた事がとにかく印象深かった。
そんな錚々たる面々が集まったこの日、僕の中に最も強烈に刻まれたのが村上達郎その人である。
当初、良い印象はなかった。この人は現在ソロで活動されているが、かつてはバンドを組んでいた。今でも時折りバンド編成でライブを行っている。
あまり詳しく書くのも憚られるような気もするので簡単に言うが、要はネガティブな曲しか作れなくて解散したと言うのが一応の公式(?)見解である。
そう言った中途半端な予備知識からくる先入観が手伝って、なんとなく村上達郎と言うシンガーソングライターに良い印象がなかった。
結論、ぶっ刺さった。
バンドマンであることの劣等感や焦燥感、誰それは上手くいっている、自分は変わらない。そんな日々を切実に綴った歌詞が、強く物憂げな声で歌になって襲いくる。
僕はバンドマンではない。売れない、知られない、変わらない、そんな恐怖はただただ想像する他ない。
なのにどうしてこの人の歌はこうも突き刺さってくるのか。知っている曲は一つとしてない。なのにどうしてこうも身体が揺れるのか。
共感したい、理解したい、もっと聴きたい。もう聴きたくない。そんな相反する心情に全身が揺れる揺れる揺れる。
それはきっと綴られた言葉の根底にあるものに、同じように脅かされているからだと思う。今はなんだか、そう思いたい。
「あなたの歌に救われました」虫の良い言葉である。そんなことはありえない。僕の持論である。音楽に人は救えない。救われたように感じさせる事がせいぜいである。そしてそれがたぶん、音楽にできる精一杯なのだ。
言い方を変えれば、音楽やアーティストを以て己の弱さ至らなさ醜悪さを正当化しているに他ならない。
それがまやかしである事を悟る日は遅かれ早かれやってくる。生きていれば、いずれそれを知らしめられる。
それは宿命などと言う見てくれの良いものではなく、もっと無情な、さも摂理であると言わんばかりの態度でいつの間にか僕らを囲んでいる。
でも、
「このしゃがれた声を信じてよ」村上達郎さんはそう歌い上げて、この無情に一矢報いた。やはり、僕がそう思いたいだけである。
うまくいかない、うまくいかない、うまくいかない、何も変わらない。何にもない何にもない、何にもない。そんなことを歌った曲を、それでもこの人は「明日」と名付けた。
音楽に人は救えない。そんな無情を悟った、鉛のような重い胸。それを突き刺すのはしかし、焦がれたアーティストの歌なのだ。歌であって欲しいのだ。その願望を、どうにか救いだと思いたいのだ。
「幸福よりも不幸の方が少しだけ引力が強い」
ステージが終わりすぐさまCDを手に取った己が手の内で、1人の月が傘をさしていた。
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