愚痴

 "お前結婚は?"
 先日、内線電話越しにTさんは僕にそう言った。
Tさんはよく連携する部署の偉いさんである。
-まだです。
-予定は?
-も、ないですね。
 寂しい奴やなぁ、とTさんはどこか嬉々とした声色だった。
 僕は、まぁそうですねなんて、強がりとも捕らえられかねない危険な応答をしてしまって、その日の午後を酷くイライラしながら過ごすはめになった。
 
 "あんたもいつか結婚するやろ"
 先日、祖父の葬儀の席で、母はさも当然のことのようにそう言った。
しない、と我ながら愛想もへったくれもなく応えた。
どうして?なんて聞いてくるから、そんなに長生きするつもりない、と実の親に対してあまりにもな事を言った。母はどのように受け止めたのか、あるいは全く気にしていないのか、変わった子やなぁと言って会話を締めた。

-寂しい奴やなぁ。
-変わった子やなぁ。
"生きてて楽しいか?"
 なんて言葉が飛び出しそうで、僕はこの手の会話が酷く嫌いである。

 「実家に帰ると結婚の話をされるから帰りたくない」
 こう言った台詞はそこかしこで発せられているようだ。僕の身の回りでは、前の先輩がそうだった。30歳をとうに過ぎた独身女性と言うこともあって、黴が生えるほど古い男性社会である弊社の、腐って異臭を放ちそうな部署の、すっかり脂ぎって実際に異臭を放つおじさん連中に散々ネタにされていた。
 温厚な人で社会人経験も積んでいるから、そんなときも先輩は嫌な顔一つせず、むしろ空気を壊さないように振る舞った。
 おっさん連中が出払った後に一言、"疲れたな"と漏らしたことを覚えている。

 先月、僕の部署に新しい人が来た。入社2年目の女の子だった。先程申し上げたように、弊部署は黴が生えそうなほど古い場所である。"高齢化が酷いから若手を入れろ"と言う上の指示のもと、第一陣として僕が配属された。同じく2年目からだった。
 僕の場合、1番歳が近くて先程の先輩である。歳の差は10以上あった。正直言ってかなりやりにくかったし、何度も辞めようと思った。悩みを共有できないことの辛さを、身をもって知った日々だった。
 それからもう2年ほど経って彼女はやって来た。弊部署としては十数年ぶりの若手女性社員と言うこともあってか、かなり浮ついた空気が流れた。
 入社4年目にして初めて後輩が出来た僕は、悪戦苦闘しながらも後輩に接している。いつかの自分と重ねて、今の環境がキツいだろうなと思うから。
 無論、何でも相談できる存在になろうなんて思っていない。幾ら歳が近いとは言え僕は先輩で、なおかつ異性である。それでも出来る限り声を掛けやすい存在になろうとしている。あの惨めで情けない自分と同じになって欲しくないから。
 社会人になって初めて誰かのために仕事をしていると思った。質問が来れば手を止めて答えた。答えられなければ解る人に聴きに行った。手に負えない仕事を手伝った。熱を出して休んだ日は変わりに期日を守った。
 正直充実していた。それは日々こなしている顔も知らぬ客のための仕事よりよほど僕に"役立っている"実感を与えた。
 上司も褒めてくれた。異動したてで同期もいないから積極的に声をかけてくれ、そう言われたことに建前を借りながら、僕は僕のためにこの一月過ごした。

 "俺からあの子に、お前をええように言うたろか?"
  内線電話越しにTさんは言った。なんのことか、なんて言うつもりはない。この手の"イジリ"が珍しい人生ではなかった。
-いやいや僕なんて話になりませんよ。
-いやぁ、だからそこは俺が一枚噛んだる言うんや。
-お前最後に女おったんいつや?
-ええ加減溜まるもんあるやろ?

-勘弁してくださいよ。これセクハラになりかねませんよ。

-なんでやねん、お前偉く積極的にめんどう観てるらしいやないか。

"-てっきりその気があるんかと思ったわ。"

 僕はその後、多忙を極める仕事に感謝しながら仕事の話をして電話を切った。この手の"イジリ"が珍しい人生ではなかった。なかったが、やり場のない不満や怒りもいつものことだった。
 あの嘲と憐憫を混ぜたような声色のクソジジイ。置いていかれる、老いて枯れるのを待つだけの腐ったジジイ。

 僕はそんなに惨めだろうか。側から見ると飢えているように写るのだろうか。"色恋沙汰に縁がなく久しぶりにやって来た異性に色めきだっている若造"として、僕はそんなに適当な人間なのだろうか。

 嫌になった。虚しくて悲しかった。どうしようかと思って煙草を2本吸った。缶コーヒーも買った。遠回りして帰った。好きな音楽を聴いた。どうにもならなくて今、文字に起こしている。
 どうにかしようと思っているけれど、浮かんでくるのは己の惨めさを補完することばかりだった。
 ある作家の本を思い出した。"あなたの中に、私はいる"。自己とは相対する相手の中にこそ存在する。そんなメッセージが込められた、他者との繋がりを描いた作品だった。美しい本だった。
 "あなたの中に、私がいる"だとしたら今、少なくとも今日、前述の気色悪い僕は存在したことになってしまう。
 助けて欲しい。でもどうしようもなかった。誰かに愚痴をこぼそうと思った。でもなんだか惨めで出来なかった。Twitterで面白おかしく書いてやろうかと思った。でもそれだと嫌われる気がして嫌だった。だから今ここに書いている。
 淡い期待がある。誰かの目に留まって、幾らかの共感が得られればと思っている自分がいる。そんな自分も嫌いである。

 孤独でない人は本を読まない。なんて言葉を聞いた事がある。知った当時は、何を格好付けてやがると思った。今はなんとなくわかる。
 本は他者を受け入れもしなければ、拒みもしない。本と読者の間において、それはいつだって読み手の特権として存在する。
 故に本は都合が良い。生身の人と人として他者に触れれば、見たくもない自分があるかもしれないが、本ならそんな心配はない。読み手は良いように本の中の自己を見出せる。

 沢山の生き物の死に様を書いた本の中で著者が言っていた。"死は生命の終着点ではなく、生命がその繁栄の為に獲得したシステムである"。曰く死を持って生命は不要な部分を淘汰し繁栄してゆくと言う。それが進化であると。
 この価値観が大好きだ。だとしたら産まれて死んでゆくだけの僕にも価値がある。僕は僕の中に幾らかの不要を抱いて、それを除くために死んでゆくのだ。僕はそのための箱なのだ。

 冴えない人生である。その自覚はある。だからせめて無様にだけはならないように努めている。そのつもりである。
 不幸だと叫ぶには足りないし、かと言って幸せだと思うにも足りていない。その程よく調整された時間の中で今日も、たぶん明日も僕は続く。
 だから足りない所は気にせずに、無い物ねだりはせずに、せめて潔く。どうにか取り繕ったその外観がせめて共有されることを願って生きてゆく。今日はあいにく上手くいかなった。たぶん暫くこの調子なんだろうなと思う。
 そんなわけで教養も含畜もない文章をつらつらと書いてきた。
 読み手がここに無様な自分を見出せば良い。そんな魂胆のある、言わば八つ当たりである。

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