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ラベルは変われど、精神は変わらず。
美術の先生と話していて、造形作家である友永詔三(ともなが あきみつ)氏の話になった。
友永氏のことは存じ上げていなかったが、NHKの人形劇「プリンプリン物語」の人形作家として有名だということだった。
この番組のことも知らなかったので、気になって調べてみると、数々の作品が出てきた。
ファンタジックな作品が多いが、いろいろと見ていて思ったことがある。
それは、仏像を見ているような感覚になるということである。
もちろん、一般的な仏像とは異なる。
ファンタジックであるし、作品に着せられているのは洋服である。
しかし、見ているときの感じ方は仏像を見ている感覚であった。
以前にも書いたかもしれないが、芸術が「成立」するのは、作品と鑑賞者の関係性が生まれた時であると思っている。
作品を観ている人のどこかに引っ掛かりがあり、気になり、鑑賞してしまう。そのようなものだと思う。
だから、ある人にとっては素晴らしい作品に見えても、ある人にとっては何も感じない作品というようなことが生まれるのだと思う。
芸術は、初めはとても個人的なものだと考えている。
私にとって友永氏の作品は、仏像のようなものである。見ていると、どこか心の安らぎを感じる。
見た目は現代的だが、だからといって「モダン仏像」だとか「ネオ仏像」というような名前を安易につけたくはない。
こう感じることが、まさに仏像の精神性を感じる理由ともなっている。
軽やかさを感じる作品でもあるが、重心は低い。そんなことを思わせてくれるものだ。
だから、あくまでも私にとってはという話だが、友永氏の作品は、身の回りに並べておくものではなく、日常に溶け込んで、その場を見守ってくれているような存在であってほしい。
時代によって、生み出される作品は、多かれ少なかれ、その時代の影響を受けている。
だから、現代のいろんな要素が織り交ぜられた日本社会で生まれる仏像が、このような形であっても不思議ではない。
何が言いたいのかというと、static(静的)にある概念を見るのではなく、dynamic(動的)にある概念を見ることができた気がして嬉しかった。
その結果として、「像」というものの精神性にほんの少し触れられた気がした。
言葉と、それに与えられた定義を結び付けておくことは大切だと思うが、縛り付けられていてはおもしろくない。
もしかしたら、精神性はそのままに、外見や与えられた言葉は変化しているものが、他にもいろいろとあるのかもしれないと、また世界が開ける気がしてワクワクした。
クリエイターと話していると、自分の中の創造性が刺激されておもしろい。
何気ない雑談の中で、とてもおもしろい体験をさせて頂いた。