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きゅう/く 地図とレシピの意外な関係

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「俯瞰するために必要な物ってなんだ?」

「これまた難しい「問い」を投げかけられたもんだ。どれ、ちょっとゆっくり考えてみようかね。」


様々な状況で、特に「“仕事”における様々な状況で」という風に限定しても良いかもしれませんが、「俯瞰する」が要求される事が多々出てきます。その“仕事”がどんな仕事かによっても違ってきますが、関わる人が多くなり、掛かる時間が長くなり、必要な事柄が増えれば増える程「俯瞰する」が必要になってくる傾向にあるんじゃないかなと思っています。

それがどんな仕事であっても「俯瞰する」のイメージとして、“サッカーの試合をしているグラウンドを、上空のテレビカメラで撮影して、その映像を観ているような状態”としてイメージを伝える事があります。
このイメージが共有できると、仕事を「俯瞰する」が、イメージ共有前と比べて出来るようになっていく場合があります。

ただ、これはあくまでも「頭の中でイメージする」という行為をしてもらう為の概念を共有しただけの状態なので、それぞれの人の中での“サッカーの試合のイメージ”がズレていたり、「仕事=サッカー」への置き換えが同じようにできていなければ、その仕事を俯瞰したイメージが大きくズレていくのは最早必然でしょうし、そうなればせっかく「俯瞰する」をした筈なのに「俯瞰できてねーじゃねーか」なんて言われてしまったり、「俯瞰できないヤツ」だと思われてしまったりするだろうというのも想像に難くありません。

そして、それはその仕事をする人達にとって悲劇以外の何物でもないでしょう。
「仕事においては、より気持ちよく、より楽に、より高いパフォーマンスを発揮したい」というのは、働く人であれば誰もが願っている事だろうからです。

じゃあ、どうしたら「俯瞰する」をその仕事に関わる人達の間で「同じようなイメージ」を握る事ができるのか?

そんな「問い」が湧いてきます。

「俯瞰する」という行為をして自分の頭の中のイメージと他者の頭の中のイメージを一致させるっていうのは一体どういう事なんだろう?「俯瞰したイメージ」が一致した状態っていうのはどういう状態なのかから考えてみれば良いかもしれない。そうなると、例えば「同じサッカーのテレビ中継を見る」とか「群馬県庁の展望階に一緒に行って、同じ窓から同じ景色を眺める」とか「同じ地図を見る」とか。ああでも仕事を俯瞰するという時には、「物理的に同じ景色を眺める」というのは同じ職場にいる人は誰もがしている筈なのに俯瞰したイメージが一致していないからこういう悲劇が起きているわけで。つまり、現実の仕事を一旦頭の中で抽象化するという作業が必要になっていて、その抽象化された「俯瞰イメージ」を具体的な仕事に活かす為に「思考する材料」にしたり、「行動する材料」にしたりという部分のズレが現実世界に現れる事で悲劇になっているわけで。と言うことは、「現実の仕事を俯瞰したイメージ」と「その俯瞰イメージを現実の材料にするためのレシピ」があれば良いのではないだろうか。

そんな事が頭の中を巡った結果、「俯瞰したイメージ図」と「それがどんな風に仕事に結びつくのか具体的な解説」を、その仕事に携わる人達で共有できれば良いんだという事に辿り着きました。言ってみれば、「地図を見ながら目的に辿り着くためのルートや注意するポイントを登山メンバーで一緒に確認する」的な事なので、「至極当たり前の事」になってしまったんですが。

僕としては、今これを書いてみてようやく考えがここに至りました。

だけど、この「地図の作成」と「その地図を仕事に活かすレシピ」については、ウチの会社の仲間が既に実現していて、パートナー企業に提供しています。もちろん、その作成に多少は協力しているつもりなので、ここに書いた考えが全く無かったというわけでは無いんでしょうが、ここまで明確に言葉にできたのは今はじめてというわけです。

だけど、これを作った人=仲間の頭の中には、既にここに書いたような事は当然ながらあったのが前提なわけです。そうでなければ「他社の地図を描く」なんていう、極めてロジカルな芸当はできないのではないだろうかと思うんです。

つまり、冒頭の問答のような事が常に自分の中に在るんだろうと思うんです。もちろん、問答なので、「問い」と「回答」という「対話」が自分の中で行われているんじゃないだろうか。そして、その「地図」を描いて、「地図の使い方」を書くという、自分に内在しているモノを外化して、それを「俯瞰する」為に必要な物として提供する。あくまでも論理によって、「俯瞰する」という“抽象化する行為”を、“具体化する行為”に変換したわけです。

さっき、「その地図を仕事に活かすレシピ」なんて自分で書いていましたが、まさにその言葉通り、これは「レシピ」なのかもしれません。

レシピ本にも、“料理の完成写真”という地図があって、そこには“材料”が書いてあって、“調理方法”が書いてある。

つまり、“誰かの頭の中に在った何らかの料理の作り方というイメージ”を、他の人達と共有して、それを他の人達が実現して、それによってその人達が「何かを得る」というのがレシピ本の役割なんだろうし、レシピ本は「料理の地図」と「地図の使い方」が合わさった「料理を俯瞰して見るためのツール」なんじゃないかなと。

こうやって自分達のやっている事を振り返ってみて、解説とか翻訳をしてみるというのは自分にとっては頭の中が整理されてスッキリするための楽しい作業なんじゃないかなと、今これを書きながら思っています。

冒頭で問答から始まったので、今の僕があの「問い」に答えるとしたら何て答えるかを書いて、更にスッキリして終わりたいと思います。


「俯瞰するために必要な物ってなんだ?」

「それは、俯瞰図。俯瞰図があれば、誰でも俯瞰できるからね」

「俯瞰図なんてどこにあるんだい?」

「無いの?無ければ作ればいいんじゃない?」

「作ればいいってまたそんな藪から棒に」

「だって必要な物なんだから、無ければ作ればいいじゃない」


こんな風に、何のために何をするかを決めることが、新しい物を生み出すための原動力なのかもしれないなあ。

週明けに会社に行ったら聞いてみよう。

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