動詞より名詞の方が覚えやすい?!
こんばんは。べんとうです。
眠たすぎる。ちゃんと寝たんだけどなぁ。
眠いから今日のブログも意味わかんないからね。僕も意味わかってないので、読者の皆様が意味わからなくて当然だと思います。
「わかりやすかったよ!」という人がいれば一報ください。あなたが僕か、どちらかが天才すぎるのだと思います。
――今日は「体言至上主義」の話。
本を読んでいて、何となく「スルスルスル~」と話が入っていく場合、その文章は動詞構文が多いことに気付きます。
例えば、
・織田信長は、日本全体を自分のモノにしようとしました。
これって動詞構文ですよね。本来なら「全国統一」という体言が使われます。
・織田信長は、全国統一を目指したのです。
さて、体言とは「抽象化」の結果に他なりません。
例えば「りんご」を想像してください。
僕たちはりんごそのものの味覚、触覚、視覚的情報の「平均値」と「分散」を頭の中に記憶しています。その範疇にあるものはすべて「りんご」です。
ちなみに、プラトンのイデア界の話で、「僕らが絵にかいたリンゴも実物のリンゴも「リンゴ」と認識するのは、イデア界に「リンゴ」そのものがあるからだ」というのがありますが、僕は単純に「絵にかいた『リンゴ』」が音声情報のリンゴと条件づけされているだけだと思います。
なんせ、平均値と分散という、要約統計量を頭の中に記憶している時点で、それは「抽象」というプロセスを踏んでいるでしょう?
例えば、「幸せ」という体言。
これだって、「幸せ」と呼ばれるものの特徴の「平均値」と「分散」を何となく頭の中で記憶していると思いませんか。
もちろん、一次元的に語れるものではないと思います。n次元ベクトルと呼ばれるような「言葉のn原色」のようなものが頭の中に備わっているのかもしれません(丁度、緑という色が「青」と「黄色」の交わりであるように).
とりあえず、体言とは「抽象化」の結果に過ぎないと思うのですね。
だからこそ、頭の中に記憶しやすいと思うのです。
抽象ってなぜ必要かというと、僕らの記憶が雑魚いからです。
具体だけで文章を進めようとすると、頭パンパンになるでしょう?
だから「ここだけ覚えてね。そしたらなんとなくストーリーで思い返せるから」っていう具合に、体言を以てして抽象化するのです。
中学の歴史で「流れは一旦置いといて暗記だ~!」ってなってたのもここに由来するのかなと思います。高校で日本史を選択すれば、よくわからんかったものも、伏線回収的に理解出来ますからね。
しかし、一方「用言」は覚えられないですね。
僕らは、用言を見ても覚えようとしません。なぜなら、用言とはストーリーのまとめ表現だからです。
実際のところ、脳梁(左脳と右脳の架け橋)を切断された患者の右脳に
1.名詞のカードを投影 → 認識可能
2.動詞のカードを投影 → 認識不可能
らしいじゃないですか。
要するに体言は、原初的な古典的条件づけで覚えられるんですけど、用言はそうはいかないみたいです。
それこそ前回取り上げた、第2信号系がここに絡むのかもしれませんね。
とりもなおさず、用言は不思議です。言語の中で閉じているようで、現実的に用言をイラスト化したり体で表現したりすることも可能だからです。
でも、脳科学的には、体言ほど単純な条件づけはされないようなのですわ。
むずかしい!