武道と格闘技の違いに関する考察(試合に対する考え方から)
はじめに
おそらく、多くの人にとっては武道と格闘技はどちらも、何らかのルールに則って戦う競技であり、同じように見えると思います。他のスポーツとの違いは、例えば、球技と比べると、相手の体に手や武器で触れ、直接、攻撃することです。ラクビーにもそんなところがあります。でも、ラクビーの得点は相手チームの選手への攻撃ではなく、ボールを持ってタッチダウンすることで得られるところを見ると、やはり、球技で間違えないでしょう。話が逸れましたが、剣道、柔道、空手のような武道と、ボクシング、フェンシング、レスリングのような格闘技の違いはどこにあるのでしょうか。それについて、特に、試合についての考え方から考察します。
ざっと見た武道と格闘技の違い
上にあげた武道と格闘技の違いは、大まかには、日本発祥と欧米から輸入の違いでしょう。これらの武道と格闘技を比べると、細かい違い、例えば、各々の競技ルール、プロとアマチュアの有無、段級制の有無などがあります。ところが、競技のルールがあり、勝敗はそのルールに従って決められるといった大枠は、特に変わりがありません。ただ、日本の武道の中には合気道というものがあります。一部の例外を除いて、合気道では戦って勝敗を決める競技ルールがありません。また、空手では組み手の試合以外に形の試合というものがありますが、一方、ボクシングでシャドーボクシングの優劣を競う試合はありません。この辺に、武道と格闘技の違いがありそうです。
武道に特有な形稽古
現代のメジャーな武道は何と言っても学校教育に取り入られて歴史が長い剣道と柔道でしょう。この2つの武道を見る限り、競技のルールや用具などが異なるだけで、各々に似た格闘技であるフェンシングやレスリングと大枠は同じと思えます。どちらも、決められたルールに従って、規定の用具を用いて戦い、勝敗を決めます。違いは、剣道や柔道には段級制があり、その審査には試合だけではなく、形の審査があることです。つまり、形稽古のあるところが、フェンシングやレスリングと異なるところと言えます。ちなみに、もう一つの段級制については、これは柔道が採用して他の武道も取り入れましたが、日本の武道が世界に普及した要因の一つとなっています。欧米の格闘技は、ボクシングのようにプロライセンスというものはありますが、熟練度を段階的に証明する段級はありません。こうした、きめの細かい認定制度は、武道を学ぶモチベーションとなっているのです。
試合に役立たない形稽古
剣道の形は試合で使うことがない木刀で行われるし、柔道の形の中には試合で使えない当て身技(手や足による打撃技)が入っているものもあります。一方、フェンシングやレスリングには試合に役立たない練習はありません。こうしてみると、武道の形稽古とは、試合で勝つ目的でするものではないと言えます。では、何のために形の稽古をするのでしょう。
護身術としての武道
剣道には、木刀の形ばかりではなく、真剣による試し斬りや模擬刀による居合というものもあります。こう見ると、剣道の目的は、竹刀での戦い方に秀でることではなく、日本刀の使い方を学ぶことと言えます。剣道は、大まかに言えば、江戸時代までの剣術諸派をまとめたものです。江戸時代まで武士は帯刀していたので、護身術として、刀の使い方を学ぶのは当然です。今の常識では物騒な話ですが、時代背景を考えれば無理のないことです。一方で、柔道も、総合的な格闘技術を含む護身術として考案されたので、形の中には打撃技が含まれています。ただ、試合では危ないので禁止技となっているのです。ちなみに、柔道の寝技で一定時間の押さえ込みが一本になるのは、押さえ込んでから十分な時間があれば、懐から短刀を取り出して刺すことができるというのが元々の理由です。こちらも現在の常識では物騒な話です。
近代化以前の武道
実は、日本の武道で、勝敗を判定するためのルールが細かく決められたのは柔道や剣道のような近代武道以降です。それ以前は形稽古が中心で、自由に技を掛け合うこともあったけれど、ルールはその場で便宜的に決められました。例えば、黒澤監督の「七人の侍」では、七人の侍のメンバーである久蔵に木刀で挑んだ浪人が、自分で相打ちと判断します。ところが、久蔵は自分の勝ちを主張するので、浪人は真剣勝負を挑み、今度は久蔵に斬られてしまいます。このように、安全を配慮した試合での勝敗に納得がゆかなければ真剣勝負をするのが、本来、武道の試合のあり方です。つまり、武道の試合は命のやりとりのシミュレーションと言えます。そこにはポイントの取り合いで優劣を競う格闘技よりも、シビアに自分の実力を認める潔さが要求されます。そうしなければ、久蔵に挑んだ浪人のように命を落とします。
試合に対する文化の違い
スポーツの試合では勝敗が決すると、勝った方が歓声を上げて喜びを表現します。これは球技に限ったことではなく、格闘技でもよく見られる光景で、誰もそれを咎める人はいません。ところが、最近、国際化によって多少の変化はあるものの、武道の試合では、試合前に一礼して、試合後にも一礼します。それが終わるまで勝敗に伴う喜びや悔しさの感情表現は控えられます。これは格闘技の常識から見れば奇妙な文化ですが、武道の試合が命のやり取りのシミュレーションと考えれば納得ができます。そんな場面での感情表現は不謹慎、あるいは、サイコパス的なものになってしまいます。
漫画の中の達人の試合
漫画の中では、武道の達人同士がパッと構えたかと思うと、一方が参りましたと一礼して終わるなんて場面があります。格闘技の常識から見れば、理解不能か、笑いをとる場面にしか映らないと思います。ところが、今まで述べた武道の試合に対する考え方を当てはめるならば、理解することができます。一旦、武道の試合が始まれば、どんな危険な技が出てくるか分かりません。自分の身の安全を確保するには、相手が自分より強いと分かったら、すぐに降参するに越したことがありません。それが極端になれば、構えた瞬間に「参りました」となるわけです。
まとめ
現代社会の中では、武道も格闘技的な面が発達し、本来の武道的な面は薄くなっています。それは、身体運動を伴う活動は、勝敗をルールに沿って判定するスポーツという業態の中に組み込まれることで生き残ってきたためです。武道が一般に広く普及するためには、致し方ないし、好ましい方向でもあります。それでも、道場には神棚があったり、道場に入るときには場に対する一礼をするなど、武道文化は残っているものです。近年は、特に空手の普及で海外にも日本武道の文化的あるいは精神的な面が伝わっています。日本人が思っている以上に、こうした日本の精神文化は好ましいものとして受け入れられていることを、仕事で駐在したケニアやルワンダでも目にしてきました。こんな豊かな文化を当の日本人が知らないならば、もったいないことです。この記事で、こうした日本文化の価値に気づく人が一人でも増えたならば幸いです。
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