第九話 青果市場の従業員が転生してメタバース空間の女子高生になった件(Azusa編②)
「自分の胸の内に聞いてみるのが一番いいかもね」
「組織や社会に不満を持った出来事を思い出してみるとヒントがあるかも知れない」
ーー
完全に眠りに落ちる前に耳元で囁かれたのかもしれなかった。Azusaの脳内には店主の言葉が残響のごとくこだましていた。
朝起きたら自分以外の誰かに生まれ変わりたいという願いが叶ってしまい、なぜだか女子高生になってしまった自分はラーメンを食べ、よくわからないDAOとやらの講義を受けるも速やかに居眠りをし、おそらくラーメン屋の2階と思しき屋根裏部屋の天井を、いま、見つめている。
そんな風に自分の身に起こったことを反芻するようにAzusaは思考の整理を試みる。
居眠りをした後に誰かが自分を屋根裏に運んでくれたのだろうか。
「パジさんのラーメン、美味しかったなあ……」
組織や社会に不満を持った出来事は沢山あるけどずっとみないふりをしていた。
本当は実家の一番近所にあった農業高校じゃなくて大学まで進学して農学部に通いたかったし、大災害で命を落とした両親には生き延びていて欲しかった。
でもそれは今更考えても仕方のないことで。どちらかといえばその後の人生の中で感じた不満の方がAzusaの中では大きなしこりになっていた。
ーー
「え!?何?聞こえない」
「すいません……」
「これだから今の若い奴は」
「申し訳ありませんでした」
「声ちっさ!」
ーー
社会の中では理不尽が常にデフォルトで、いつだって人は人に急いでラベルを貼りたがる。
弁が立つ人間にはより輝かしいラベルが、そうではないむしろ口下手で大人しい人間には残念ながら見切り品のラベルが付けられてしまう。Azusaは本来の自分が見えなくなるぐらい、何度も何度も見切り品のラベルを貼られ続けてきた。
「DAO……自律分散型組織、だっけ」
Azusaは自分が属していた古い体質の会社について思いを巡らせた。
機嫌次第で変わる上司の指示。まるで個人商店の集まりかのようなフォロー体制のない働き方。雰囲気で受け継がれている組織内の決まりごと。
そんな自分にとって当たり前の土壌を根こそぎ覆してしまいそうな甘美な響きだなと思った。
「ねえ」
天井をぼんやり眺めていたら横から突然pajiroの店員、ビアンカが現れた。
「わ!」
「もう十分寝たでしょ?買い出し手伝って欲しいんだけど」
「ああ、はぁ……」
まだここで働くかどうかとか労働環境はとか福利厚生がどうとか、そんな話すらしていなかったが、前職に比べればおそらく待遇は良さそうなのでとりあえずビアンカには従っておこうと思いつつ寝ぼけ眼で言葉を返す。
「ここの外階段からそのまま外に出れるからさ。早く行きましょ」
「この世界でも市場は朝早く動いてるんだ?」
まだ真っ暗な窓の外を眺めながらAzusaはビアンカに問いかけた。ドアの外に早く来るよう促されたので渋々髪を整え外出の準備を手早く終える。
「いつもはほとんど遠隔注文なんだけどね。主からの要望でキミを現地に派遣するように言われたのよ」
タンタンタンと音を立てながら2人で簡素なつくりの階段を降りる。
「え、待って。俺、市場で働いてましたって話したっけ?」
「とりあえずウォレットアプリ開いてみてよ」
「へ?」
訳もわからず狐のアイコンのウォレットアプリを開く。いつの間にかスマートフォンにダウンロードされていた謎のアプリだ。
「このアプリの……あった。これをクリックして」
ビアンカの顔がAzusaに近づく。サラサラの銀髪がAzusaの頬にわずかに触れたがくすぐったさを誤魔化すように画面をまっすぐ見つめた。
「なんだこれ?俺が市場で乗ってたターレットの……画像?」
「これはNFT!NFTは、ノンファンジブルトークンの略なんだけど。……まずは習うより慣れろ!」
「え!?」
画像をクリックしようか悩んでいたAzusaの指先をツンとビアンカの指がつついた。
その瞬間、2人の目の前に手品のようにスマートフォンの画面上にあったはずの1台の乗り物が現れた。
「……これは一体どういう原理なの?」
「この世界ではNFTが画像から実物に変わるんだよね。んで、誰が何のNFTを持ってるかが透明化されてる仕組みだからキミが目をつけられたってわけ!説明は以上!」
初心者が理解できる説明になっていないよなと思いながらAzusaは目の前のターレットに触れてみる。
「なんだよこれ、本物じゃん……」
むき出しの運転席に乗り込みハンドルを握ってみる。操作性はなんら変わらない。正真正銘、自分が仕事で使っていた愛車だ。
「ほら早く行くよー、出発出発!」
いつの間にか後ろの荷台部分にビアンカが乗っている。
「でもさ、道路交通法的に大丈夫なのかな」
「大丈夫!そんな法律ここにはない!」
本当かな。と思い道路をよくよくみてみたら確かに全然車の形をしていないものたちも車道を勢いよく走っているので妙に納得した。なんならドローンのように宙を浮いているものも沢山いるし自分の愛車が地味なぐらいだ。見切り発車的にビアンカを乗せて走り出す。
「市場に着いたら美味しいにんにくのレクチャーよろしくね!」
「それぐらいならお安い御用」
「あー朝から外出はいいもんだなー」
「朝早すぎて太陽出てないけどね」
「あはは」
もしも今日の夜にまた睡魔が来て眠りについて、次の日の朝に目が覚めたとして。自分はまた変わらず"今の自分"のままなんだろうか。
いや、"今の自分"でありますように。
そんなことを考えながらAzusaはアクセルをあげて坂道を登っていく。ブオオオオとエンジンが大きく唸り声を上げる。
「とりあえずDAOってみるかぁ」
「えーなに?聞こえなーい。美味しいにんにくの話?それとももやし?」
「どっちも違うー」
遠くのビル群からほんの少しばかり太陽が身体をのぞかせたような気がした。こんなに朝が待ち遠しいのはAzusaにとってはじめてのことだった。