文章を自由に書く
大雪が降るとのことで、電車が止まるのを恐れて友達との約束をリスケした。その結果、丸一日予定が空いてしまい、散歩できる天気でもないし、今日も昨日と同様引きこもることになった。——と書き出しから日記だ。PCでエディタを開いて自由に文章を書こうとすると日記になってしまう。習慣が染み付いている。まあいい、自由に書くというのは、書けること書くということなのだ。すくなくともこのエッセイは、できないことに挑戦する場ではない。
「音楽に技術や熟練、あるいは完成度を求めるのであれば、フリーではなく、不自由をこそ愛すべきだ。」
これは年始早々、修論の執筆を後押ししてくれるような疾走感のある音楽をAmazonでディグっていたときに見つけたレヴューだ。(気になる人はこのフレーズをコピペして検索してみてください。簡単に見つかるはずです。)俺はこの一文が非常に気に入って、PC上のメモ置き場に残してある。
彼に迫られて、寂しくて一緒になってしまったの。それで幸せになれるなんて思ってない。ただ、偶然が重なって、気がついたら彼を愛してしまっていたの。
不自由でいることなんか求めていない。だが、自由に書いた文章を論文の形にまとめるために、不自由な制約の中に文章を押し込めなければいけなかった。文章を自由に書いたと言っても、論理的な文章を書くことはつねに意識せざるを得なかった。本当に心から自由に書いた文章なんてなかった。
そんな文章はあるのだろうか?この世界に、完全に自由なエクリチュールはあるのだろうか?——ない。そもそも「文章」さえ一つの形式だし、形式を超えたところで何かが表現できるはずもない。こういうことは多分、俺が修論で書いた内容から容易に導き出せる話だ。われわれはいつも、なぜか不自由。
ともあれ、「技術や熟練、あるいは完成度」を求めすぎてしまっている。かつてほどスラスラと言葉が出てこない。もっと無限に文章が書けたはずなのに。
遅い。
スピード感というものがまるでない。キーボードを叩く音が心地よくない。かつての俺ならば、もっと小気味のいいカチカチとした音を鳴らせたのに。いやしかし、考えてみれば、喋るのは前よりも幾分うまくなった。Podcast『人間生活』を始めてから5ヶ月くらい経つらしいが、機関銃のように言葉を紡いでいけることもある。続けていけば慣れるものなのだ。頭の回転が衰えているわけではない。ちょっと硬くなっているだけだ。このブログ連載「BPM60」だって、始めたのは一昨日のことだし、気長にやればいい。そうだなぁ、字数の目安くらいはあってもいいかもしれない。いま、だいたい1000字。毎日1000字を書く必要はないけれども、「今日は文章をスラスラ書く日にしよう」と思った時には(たとえば今日がそうだ)、まずはこれくらい書ければいいのかもしれない。主張もオチもなく、俺の部屋でなっているキーボードの音だけが、そしておそらく、この音が文字になって奏で続けるリズムだけがある。