楽園の魚たち
一年前、高校時代のクラスメイトと水族館に行った。僕も彼女もそれぞれの大学から大きな課題を出されていて、それが終わったので何となくねぎらいをこめて出かけることになったのだった。僕たちが訪れたのは電車一本で行ける中規模の水族館で、一応イルカショーもやっているようなところだった。ふらふらと見て周り、僕たちは巨大水槽の前にきた。
水槽の前にはいくつかカラフルな椅子があり、丁度二人分空いていたので腰掛けた。水槽の中には大きなエイや小魚の群れ、小さなサメが自由に泳いでいて、僕は癒やされながらも、物足りなさを感じていた。そして、これまでも巨大水槽の前で同じような物足りなさを感じていたことを思い出した。
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僕は水族館が好きな子供だった。動物園も遊園地も好きだったけれど、一番好きなテーマパークは水族館だった。中学、高校で親子連れが行くような場所に行かなくなっていっても、水族館は足を運んでいた。
では自分はいったい水族館の何が好きなのだろうと考えてみると、ある巨大水槽に行き当たる。イルカや海獣、マンボウやピラルクなど、まず水族館でしか見られないような生き物たちも好きだが、やはりあの巨大水槽が僕の中にある。その巨大水槽は、僕がウルトラマンが大好きな幼稚園児で、両親がそんな僕を中心にまだ仲が良かった頃に見たものだ。僕はこの巨大水槽の思い出をずっと抱えたまま、あのときの衝撃を確かめるように水族館に向かってしまう。
僕は小さい頃のことを覚えている方ではない。映像として浮かんでくるものはあるが、前後の文脈からは切り離されており、そのとき自分が何を感じていたのか思い出せない。他人の写真や、面白くないショート動画を見ているような気分になる。
しかし、そんな僕が深い感動を記憶しているのが、幼い頃の巨大水槽なのだった。確か、その水族館は僕にとっては初めての大きな水族館だった。それまで僕が行ったことがあるのは、比較的車で行きやすいところにあった小規模な水族館で、多くの人が訪れ、珍しい生き物や広いプールでのイルカショーを見られるようなところには訪れたことがなかった。そんな僕が生まれて初めて見た巨大水槽の衝撃は凄まじいものだった。そのときの僕は水槽の前で固まっていたらしい。
ところが僕は、実はこの水槽にどんな魚たちが泳いでいたのか覚えていない。天井に鯨だかイルカだかの模型があったことは覚えているが、肝心の水槽の中身が分からない。他の記憶とは真逆に感情だけが残り、映像がないのだ。その水族館にはその後も足を運んでいる筈だが、やはり水槽の中のことが思い出せない。他の水槽の記憶はあるのに、あの巨大水槽の中だけが感情を残して切り取られている。
以前沖縄に行ったとき、日本で一番大きい水族館に行った。素晴らしかった。巨大水槽のガラスは澄んでいて、中の様子がよく見えた。自分の立つ場所と、泳ぐ魚との境界線は感じられず、海の中にいるように思えた。でも、あのときの感動はなかった。ジンベイザメは迫力あったし、本当に見たことないような大きさの水槽だったけれど、なかったのだ。中身を覚えているものでも、あの水槽の衝撃には敵わない。
小さい頃のことをあまり覚えていない、という先程の言葉に少し矛盾するようだけれど、感情が大きく記憶に刻まれている例はこれだけではない。僕はハリウッドの「ゴジラ:キング・オブ・モンスターズ」で、ゴジラが南極でギドラと対峙する場面で泣いた。伊福部昭氏の音楽がかかった瞬間に、子供の頃レンタルでゴジラ映画を観て興奮したことを思い出し、今映画館でゴジラを観ているという状況に感動した。これは「シン・ゴジラ」や「ゴジラ 2014」では起こらなかった(二つとも作品としては大好きだが)。
なぜ前の二作では泣かなかったのかは分からないが、映画の内容だけでなく、そのときの自分の体調など色々あったのだろう。とにかく僕は、子供の頃観ていた作品の内容よりも、それを観ていたときの感情が強く記憶されていたことで泣いたのだ。
また僕は怒鳴る人を見ると、人一倍辛くなる。これは僕は怒鳴られてきたときの怯えや自分を否定されたショックを覚えているからだ。進路が決まらず、春休みの高校で受験勉強をしていたときに、別の生徒が教員にきつめに叱られるのを見たときも、急に呼吸が浅くなり家に帰ってからもまともに動けなかったなんてことがあった。
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「そろそろ動く?」
僕がぼんやりしていると、彼女が尋ねた。そんなに長くいたつもりはないのだけれど、それなりに水槽の前で過ごしていたらしい。「こいつ、ここだけで一日過ごすつもりか」と向こうは思ったのだろう。
「うん、行こうか」
そう言って僕は立ち上がり、次のエリアへと向かった。最後に後ろを振り返って、中の魚たちを見た。僕が子供の頃訪れた水族館はリニューアルされて、多くの人が訪れていると聞く。あの水槽もより大きくなって、より多くの魚たちが泳いでいることだろう。しかし今の僕が見ても、あのときの感動はもう訪れないような気がしている。