ヴァナキュラーと利野主義
ヴァナキュラーは土着性や田舎的なもの、その土地固有の文化を意味する語であるが、これまで追い続けていた、気持ち悪いものの中に美を見出すキモロジーとの共通性を垣間見た。
ヴァナキュラーは対立軸の境界が溶融した中間で蠢く語とされている(菅豊)。普遍に対する土着、権威に対する反権威、正統に対する異端、プロに対するアマ、エリートに対する非エリート、マジョリティに対するマイノリティ、仕事に対する趣味、洗練に対する野卑、教育に対する独学、テクノロジーに対する手仕事、など。その象徴が「野」であり、野に生きる、「野性」がブァナキュラーの訳としている(菅豊)。
ヴァナキュラーを単に土地固有の土着性を示すのみでなく、対立の境界で蠢く語と位置付け、野という概念に象徴させたことに大きな意味があると思えてならない。なぜなら、土着のみに帰結させるとそれへ一方向への固執や執着を生むから。
野とは、曖昧なところにあり、気づかない人は通り過ぎてゆくだけ。位置付けられることも少ない。味わいがある、情緒がある、鄙びている、などその気づきを表す言葉はあるものの定義が曖昧だったり人によって捉え方は微妙に異なる。曖昧でわかりにくくぼんやりしているけど、心地良く、美しく、人に安らぎを与えるものが、ヴァナキュラーに内包されている。
この世の中で野的なものがどんどん駆逐されている。一方向に人の心が流れている。遊びや適当さ、思いやりや、鄙びたもの、古いもの、醜いもの、粗野なものに宿る美しさを感じる心が踏みつけられ追いやられ忘れられてゆく。そんな野的なものを守り愛することを利野主義と呼ぼう。
廃墟、路地裏、道祖神、石造仏、集落文化や大衆料理、ニューサンス、ホームレス、弱者への愛、これらは利野的に他ならない。気持ち悪いもの、汚れているもの、怖いものの中にある美を見出すキモロジーも利野的なのかもしれない。
利他でも利己でもない、利野主義。
自分と他人以外にも野の世界がある。それを感じられる人が野の価値を世の中に還元できる。野的なものを守り愛する利野主義は、そこに大きな価値と居場所を見出している自分自身の心を癒し楽しみを与えることに他ならない。
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