ネガティヴ・ケイパビリティ

私が『感謝』とか『ポジティブ』とか『幸せ』とかを積極的に口にすることを殊更に啓蒙する人を信用しないのは、

大前提として感謝を伝えることとか幸せを感じることは尊いことだけど、

これらをやたらと強調したがる人たちには共通して「言い聞かせてる感」とか強引に塗りつぶした卑屈さを感じるから。

戦争は起きててあらゆるものの価格は高騰してて、何年も続く感染症が未だに収束しない中で、しんどいことをしんどいと素直に表現することに社会は決していい顔をしなくて、どう考えたって人が辛くなるような世界でも足を止めることを許さず、代わりに半ば頑なに「良い面に目を向けましょう」なんて思考が啓蒙される。

まるでことの本質から目を逸らしていて
真っ当な怒りを持つことすら放棄して
「欲しがりません勝つまでは」みたいな卑屈さと貧しさをぬくぬく温存させてるように見える。

仕上げにそれらを【ポジティブ】だとか【自己啓発】なんて言葉でラッピングして売り込んでくるもんだから、なんとなく広く受け入れられてしまう。

なんでもかんでも感謝ポジティブ幸せ許し、すべて受け入れましょうとかそういうの、一回黙ってやめてみれば?っていつも思ってる。

自分の心の負の側面にヤスリがけして、万人受けするよう改竄してアウトプットする風潮、気持ち悪いからどんどん拒絶しようと思って生きてる。

ネガティブ・ケイパビリティって言葉がある。
【性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力】。

言いたいのはそういうこと。
圧倒的に足りてない能力だと思うんだ私たちに。
ろくに咀嚼のできていない感情や出来事を、急いで手に取った言葉に無理矢理押し込んで言語化したり結論づけたりしようとするあまり、ゆっくり思考すればより真意に近いところに辿り着けたかもしれないことを、バシバシショートカットしてしまって切り捨てる端数が大きくなる。

話や出来事をすぐ消化したがって要約したがって、分かりやすい答えだけを選り好み、オチをつける、ハッピーエンドに持ってこうとする。

そういう乱暴さを飼い慣らし過ぎてしまっているせいで、起こることの意味を結局なにひとつ腹に落とし込めずに過ぎてゆくかんじ、めちゃくちゃあるなと思ってる。

そんなに一生懸命、現状に満足しようとすんなよっていつも思う。

そういうファストフードならぬファストソートな思想に支持が集まる背景には、そうでもしないとやってらんない人がそれだけ居るのかなっていう居た堪れなさもあるけどね。
生産性やポジティブを盲信する社会では、怒るのも問題提起するのも煙たがられるし疲れるから。

別に感謝なんてそんな一生懸命しなくていいよって思ってる。

体調崩して働けなくなって、傷病手当受けてる友達が「手当を貰ってる身なのに申し訳ない」って自分を責めてることが悲しくて抱きしめてあげたかった。

高い税金払ってんじゃん。「これくらい貰うこともあって当然よ」ってもっと堂々としてていいことはたくさんあるとその時思った(お金の話に限らずね)。

そんなに何でもかんでもありがたがらなくても、
頭を低くして生きなくても、普通の顔してられる方がよっぽど負担が少ないことってたくさんあると思ってる。

謙虚さって卑屈になることじゃないよ。
ありがとうを伝えることは大切だけど、

自分のこと優先してやりたいことだけやってたら罰が当たるような、代償に何か辛い思いしなきゃいけないような、
そんなジンクスは存在しないから
もっと堂々としてていーよって思ってる。

しんどい時に「幸せ」って連呼してたら願いが叶って人生上手く行く、そんなジンクスも存在しない。(こういう本、本当に真顔でたくさん売られてるからドン引きする)

不安に飲み込まれて疲れたら、しなくちゃいけないのは休むことで、
不安の原因を取り除くことで。
なんかふわっとした耳当たりの良いモルヒネみたいな言葉によって、あるものをないものとして眺める力を養わないで。

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