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選ぶこと、選ばないこと。
今朝も猫に起こされた。深夜3時過ぎに散歩に出かけ、朝6時に雨に濡れて帰ってきた。深夜と、早朝でキャラが変わっており、朝からものすごい甘え具合。基本的にクールガイなので、とても珍しいテンションだ。
彼は流浪の猫で、私が仲良くなった時から色んな家に入りびたり、本家もあるような猫だ。この猫のおかげで私は猫アレルギーをクリアしたことが分かり、猫と暮らす未来が想像できるようになった。子供の頃はひどい猫アレルギーなのに、道すがらあらゆる猫を触るもんだから、よく皮膚の薄いところから痒みが広がり、じんましんになっていた。今や、猫に手や腕を毛繕いの要領で舐められてもまったく痒くならない。一緒に寝ても、猫を触った手で皮膚の薄いところを触っても、何ともない。
犬猫をはじめ、全身毛で覆われている動物をたいがいかわいいと思ってしまう私にとって、長年猫と長時間一緒に居られないのは痛恨の極みだった。猫アレルギーがなくなったことは、人生42年目のうれしい出来事かもしれない。
基本的に、スタバもマックも行かないようにしている。虐殺への抵抗のために、選ばないようにしている。それがなくても、もともとあまり行かないのだけれど、どちらも何とも便利な場所にたくさんあって、止む無しに選ぶこともある。価格も注文方法もある程度分かっていて、入りやすい。うまくできているなと思う。
荻上チキSessionで、一ケ月に一回くらいゲストに来られる永井玲衣さんの哲学対話の中でも、戦争に加担している企業に対しての不買運動が取り上げられていた。個人のお金をどう使おうが自由だからこそ、私は何かを買う時、どういう社会であって欲しいかを考えるようにしていて、自分が苦しくならない程度に理由をつけて選んだり選ばなかったりしている。
虐殺への抵抗以外では、オリンピックのスポンサー企業への不買運動をしていた。大企業が多いし、回避できないものもあったけれど、暮らしの中で選べるもの、例えばビールをどこのメーカーから買うかなどは選ぶようにしていた。環境問題への取り組み方も、同じような感じで無理のない範囲でしている。例えば菜食中心にするとか、なるべくプラスチックがちがちの包装のものを買わないとか、シングルユースを避けるとか。ある程度環境問題を学んだところで、この程度では事態は変わらないことが分かった。学んでいる途中は、やれることは全部やりたいと思って、もう少し自分を縛ってシビアに取り組んでいたけれど、後になって思うと結構ストレスも感じていた。だから無理のない範囲に留めておこうと、自分の中で折り合いをつけた。
私個人の中では、広げたことを縮小したような感覚なのだけれど、それでも『意識高い人』のように言われることがある。この間もあった。そして、それに続く言葉は「わかっているんだけど、なかなかやるのは難しいよねー」だったり、「やっても変わらないってわかっちゃっている」だったりする。シビアに取り組んでいたころは、周りの人にも広めたい気持ちが強かった。みんなそれぞれ、やれることあるでしょ!と思っていた。今は全然違って、私は意識が高いわけでもなく、自分の快適を求めているだけなので、他者に私の快適を真似て欲しいとは思っていない。
なんか、好き嫌いとは別に食べるものを制限したり、企業に対して個人的にボイコットをしていたりすると、『意識が高い』=他者に厳しそう、のようなイメージを持たれることがある。確かに、動物愛護の気持ちがふくらみすぎて肉を食べる人に批判的になったり、シングルユースの容器すべてを憎んだりする人を見たことがある。そこまでハードではなくても、近い気持ちを抱いたこともある。けどそれでは世界はよくならないのだ。
もちろん限度はあるけれど、お金を出せばあらゆるものが選んで手に取れる社会の仕組みだ。一つの商品、製品のバリエーションがたくさんあって、そこから一つを選ぶとそれ以外は選ばれない。値段や原材料、添加物の有無で選ぶ人がいるように、私はその会社が人権侵害や、ジェノサイドに加担していないかで選ぶ。今はただそれだけのこと。肉をまったく食べなくなった時期もあったけれど、今は嗜好品として外食の時は楽しんで、家ではほぼ菜食、たまに平飼いの卵と魚、という生活だ。肉に関しては猫の方が摂取していると思う。何を選んで、選ばないか。『選べるけど選ばない』という事は、大きく社会は変えないにしても、少しずつは変えているんじゃないかと思う。そう思って、私は自分の快適、最適解を探すだけ。
スタバに関して言えば、元職場でもあるので、まだ働いている元同僚やお店を利用している人も周りにたくさんいる。私が不買運動をしていると大きな声で言うことは、彼らを不快にさせることと紙一重だと思う。かと言って、一人で悶々としているのも違う。良い塩梅っていうのは難しいなーと思う。言える場所でちょっとチャレンジしてみるようにしている。
同じようにチャレンジし続けていることが、パートナーの呼び方。こういうところでは「夫」「妻」と書けば良いのだけれど、友人の手前のような関係性の相手や、お客さんのパートナーの事を、「奥さん」「ご主人」「旦那さん」と呼ぶ回数を減らすチャレンジをひとり静かにしている。これはこれで楽しい。
今日は新しい自民党総裁が決まった。石破さん、選択的夫婦別姓制度に積極的とおっしゃっているところだけは推したい。高市さんにならなくて良かったと胸をなでおろす反面、石破さんだから良いとも思わない。あと、石破さんだと、政権交代難しいかもとも思う。会見では、メモ見ずにお話していたらしいけれど、これからどうなるかは見張っていきたい。
動きは少なかったけれど、今日は頭の中が盛りだくさんの一日。