私にとっての信頼。
紅白の話。源さんのばらばらが、よかった。源さんはとても深刻そうな、神妙なたたずまいで、けれど何も話さないことがすべてを物語っているような気がした。初めて紅白に出た時の「こんばんはー星野源でーす」の感じとは対照的に見えるかもしれないけれど、どちらも源さんだ。どうしても楽曲変更と結び付けられそうな感があるけれど、私はもっと、世に対して何かあるように受け取った。手放しで「よいお年を」と言えないような社会だ。戦争も、政治も、目を覆いたくなるようなことばかりだからだ。
人は、分かり合えない、ずっと一人だ、そういう人を信頼している。20年前くらいに追っていたアーティストも、人と人は完全に分かり合うことはできないと言っていた。その人のつくるラブソングは、信用できると思った。私のそういうところは、ずっと一貫していることに気づく。
昨日実家から自宅に向かう車の中で、このことについて思いを巡らせていたら、去年ある人が言っていたことを思い出した。その人とは、その日、仕事の仕方やスタンスの話をしていたのだけれど、お互いケアが含まれるような仕事をしている中で、過剰に求められることを敏感に感じ取ってしまう話から、その人は「(相手の人生に)責任とれないよ」と言った。その人が冷酷な人柄なら、そっと距離を置くところだけれど、そうではないので、この人のことは信頼できると思った。
昨日の家族の話にもつながるけれど、それぞれにある”当たり前”が違うということ、人はもとからばらばらで、どんなに近くても一心同体みたいなことには到底なれないこと、その前提がある人と、私は一緒に居たい。それから間違っても、「あなたに寄り添います。」なんて言えない。私の行動を、相手が寄り添ってもらっていると捉えるのはあくまで相手側に生まれるもので、それを言葉にして感謝されたとしても、自分が相手に寄り添えていたなんて思えない。寄り添う、は私にとっては重い。各々がばらばらのまま、その暮らしに必要な時だけ添うような、そういう関係性を築ける相手こそ、私にとって信頼に値する人だ。そういう人と私は一緒に居たい。
伊藤亜紗さんの著書、「手の倫理」に出てくる言葉をまた思い出した。
私は、その、信頼に値すると感じる人たちが、自分の意図に反して行動したとしても、それを尊重したい(できるかどうかは、まだ人間が未熟なので、ぜったいできるとは言えない)。これは、年末年始に読み直しているエーリッヒフロムの「愛するということ」に書いてある内容にも少し通じる気がする。愛と信頼は、近しいところにあるのかもしれない。
そういう、私と似たような前提の上で暮らしている人たちが発する「分かるよ」という言葉は、そうでない人が発するそれと、響きが違うように感じる。響きと、重さ。これは、私の体感でしかないのでうまく説明ができない。けれど、その「分かるよ」の響き方で、私は相手を信頼するかを測っている節がある。その響き合いがない「分かるよ」によく歯向かっている。めんどうくさい人だと思われているだろうけれど、同じ言葉でも、私には明確に違って聞こえている。
相手と対峙した時に、自分の中に生まれるものや残るもの、そういうものを大切に毎日暮らしていけたらいいな。
今これを、布団の上で書いている。起き出そうと思っていたら、猫が自分の寝床にしている押し入れから飛び降りてきて、突然人間の布団で寝始めたがために、畳めなくなったからだ。いつうもはクッションの上の電気毛布か押し入れなのに、年末に新調したダブルサイズのふかふか毛布の上で少しフミフミした後、ゴロゴロ言いながら丸くなった。今は寝息を立てている。甘えてくることのほとんどない猫だけれど、たまにあるこういうのがかわいい。今日も明日も、よろしくね、猫。