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別姓にしたい。
私の推しPodcast「桃山商事」の代表・清田隆之さんの新刊、「戻れないけど、生きるのだ 男らしさのゆくえ」を読み始めた。前回の「さよなら、俺たち」も名著だったので読み進めるのが楽しみ。今週は、2年前にNHKで放送された「100分deフェミニズム」も見直したし、自分の中でフェミニズムや家父長制への嫌悪、選択的夫婦別姓への関心が再燃している感じがある。
このタイミングで、某タレントと、某テレビ局が関わっているとされる問題がニュースになっていて、目が離せない。ずっと、同じようなことが問題にあがっているのにいつの間にか有耶無耶になっている。ここ数年、ずっとこんなようなこと繰り返していないか、と思う。自分を主観とした「加害された方にも非がある」みたいな言いぐさをみるたびに気持ち悪くなる。何がって、こういう社会に自分が暮らしているということが。私がテレビを見ていられなくなったのって、こういう理由もあると思う。
さて、私は自分の名字が気に入っているけれど、絶対に変えたくないという強い意志があるわけでもない。なので、私個人の事だけを見たら、夫婦別姓如何はあまり関係ないのかもしれない。けど絶対変えたくないというのにはちゃんと訳があって、一つに絞れないのだけれど、最たるものと言われたら「日本の婚姻制度に疑問がある」ということに集約されるかもしれない。
私はどこまでも、家父長制に抗いたいと思っているのだ。人と関わる時、関わらなくても他者の会話を耳にする時、ひとつひとつ丁寧に引っかかっている。発するかは別として、面倒くさいと思われようと、これからも丁寧に一個一個ひっかかっていくんだ。
友人が、結婚はしたけれど名字を戻したい気持ちが今になって強くなっていると話してくれた。その理由は、私のものとは少し違っていたけれど、こうして近しい人と少し話すだけでも、色んなグラデーションで同じ願いがある人がいるんだと体感する。
改めて、何で名字を選ばせてもらえないんだろう。何でもそうだけれど、選べないってしんどい。その理由が一部の保守層とか、宗教思想によってのものだと知るたびに、一人で暮らしていこうという気持ちが強くなる。
誰かと暮らしをともにしたいと思う気持ちがないわけでは無いのに、仮にそういう話が出た時に、自分の主義主張を伝えるのが面倒だと思ってしまう。けれど、私の性格的に伝えずにいることは難しいと思う。きっと相手は面倒だと思うのではないかと想像する。考えただけでしんどい。そう考えてしまう自分の中にも、自分が育ってきた時代の家父長制の残り香のようなものがあると気づく。それに気づいてまたしんどくなる。
異性愛者で、どちらかの名字(それはだいたい男性の)に変えることに違和感がなくて、さらにそれが双方の意思があるというめちゃくちゃ狭い範囲にはまる人にしか今の日本の婚姻制度は合わないと思っている。そして、その制度を利用した人が「おめでとう」と言われる。こんなへんちくりんなことない。
たびたび遭遇する結婚報告に、なんとなく「おめでとう」を返さないといけない風潮もいい加減なくなってくれないかな。そういう報告の場で、周りが全員「おめでとー!」と言っている場面で戸惑ったことが数知れずある(そしてついこの間もあった)。私はそういう時、皆と同じように「おめでとう」が言えない。どうしてもそう思えないから、思っていないことは言えない。だって結婚って、制度を使うか否かの話だから。次、そういう報告を受けたら「法律婚ですかー?事実婚ですかー?」ときょとんとした顔で聞いてみようと思う。
そういう私でも、選択的夫婦別姓制度が通ったら、婚姻制度へのハードルが少し下がる。その制度を使った当事者として感じることを、体験してみたいという持ち前の好奇心からだ。今日も相変わらず自分が面倒くさいけれど、通常運転だ。