説明的なものを省きたい。

 また、寒くなった。けど、寒くなるには遅すぎるような気がする11月。車移動なら、まだ羽織がなくてもよい日も多い。年々思う、地球大丈夫だろうか。心配事がもう一つ、昨日の市長選の開票結果。私個人的にはなかなかにガックシきている。だからと言って、落ち込むばかりではいないでおこうと思っているけれど、私の住む場所のディストピア化をわずかに感じている。それは、衆議院選しかり、先週の兵庫知事選しかり。どこを真実ととらえるかで、こんなにも正義が変わってしまう世の中は、私の住む街も含めてやっぱりディストピアなのかもしれない。
 前からたまに思っているのが、こうして人間が環境破壊をすることは、地球からしたら織り込み済みで、今少子化が進んでいる日本を見ても、社会構造の問題というわけではなく、自然の流れの一部なのかもしれないという事。だからじたばたしてもしょうがないことなのかもしれない。諦めるわけではないけれど、そういうものかも、と思うことも精神的なバランスを取るうえでは大切かな。

 「余分」という言葉がある。最近(元々かもしれない)、意識的にしていることが「説明的」にならないようにすること。伝えたいことは山のようにあっても、誰に伝えるかで言葉のボリュームや種類は選びたいし、そうなるとこういう場や他のSNSでもたくさん説明することは、何か違うような気がする。
 だから、どんどん言葉を削ぐようになった。直接伝えられる場では、私はよく喋るけれど顔が見られないような場では語らないようにしている。良くも悪くも、言葉通りに受け取られることに抵抗がある。言葉は、表現したいことや伝えたいことの表層に出てきたほんの一部のことであって、もっと潜在的に色んなものがまぜこぜになっている。奥行きがある。
 余分な言葉なんてないとは思うけれど、表層に出さなくてよい言葉はあると思う。

 最近、正解を求めるようなコミュニケーションに関する質問をされる機会が何回かあって、そんなことを考えてしまった。私の好みといえばそれまでだけれど、説明的なものは省いて、言葉以外のコミュニケーションについて、もう少し考え続けたい。



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