起伏とボイコット。
二週間くらい前から、少し忙しくなってきた。予定がないよりも、ある程度予定が入っていた方が、メリハリが効いて自分のタスクも進めやすいことにも気づいた。頑張りたいことはもっと頑張りたい気持ちになっているし、楽しみなことはより楽しみになっている。
昨日の文章は少し内に入りすぎていた。今日はまた外に向けたことが書きたい気持ちになっている。外で違うエネルギーを浴びるだけで、自分の気分や心持は簡単に切り替わる。同時に、切り替えたいと思っているだけではそうはいかない。
気持ちが落ちた時、昔は仲のいい人に連絡をしてドライブに行ったり美味しいものを食べに行ったりしていた。今は,
そういうことはしなくなったなと思う。仲のいい人とは、「実はこの間まで落ちててー」とへらへら話せるようになってから会いたい。落ちた時、頼るのは本とラジオはもちろんだけど、最近は一人でエネルギーの良さそうな場所に出かけることも覚えた。知らない人や、顔見知り程度の人が居る場所に行くことで、自分の状態を確認するような作業だ。私のことをほとんど知らない人からもらう不意の言葉に掬われることも多い。たくさんのことを話さなくても、大丈夫。
テレビを押し入れにしまったまま数か月が過ぎた。観たいものは配信で観ている。欠かさず観ている朝ドラは、NHKプラスで観ているけれど、さっき開いたらオリンピック関連の番組がたくさんTOPページに並んでいた。
たまに熱心に一つの競技を見ることも過去にはあったけれど、前回の東京オリンピックから、観るのをボイコットしている。そのために作られる巨大建造物への違和感や、平和の祭典といいつつコロナ禍で強行され、とてもじゃないけれどそうは思えなかったからだ。一部の人だけがどんどん富を得るような仕組みになっている今の資本主義に疑問を持ってから、オリンピックの存在自体にも疑問を持つようになったからだ。観ればきっと私は感動すると思う。実際出ている選手には、それを生きがいにしている人も少なくないだろうし、そこを否定するつもりはさらさらない。幼少期から、その舞台を目標にしてきた人だっているだろう。
加えて今回は、ロシアは参加していないのに、イスラエルが参加しているというダブルスタンダードも発生している。ネットニュースの見出しには、選手への誹謗中傷のことや、選手の性別に言及するものも見かける。そもそも、国別対抗ではないのに、毎回メダルの数を予想したりカウントしたりすうるいびつさにも疑問が湧く。
『人新世の資本論』の著者の斎藤幸平さんが、News23で「五輪見ていない、ボイコットしている」と発言したそうだけれど、今日はそれに対して「選手に対しての敬意がない」的な反論をしたという元府知事発言についての見出しをみた。それはずるい。
”選手はみんな頑張っている”を差し出すのはずるい。批判している側が悪く見えるからだ。あと、そこから対話は生まれない。意見はたたかわせずに、重なる部分とそうでない部分を探すためのものであるといい。
オリンピック以外でも、ボイコットしているものがある。それについてもまた羅列してみたい。