余波。
昨日は、台風の影響が強かったら出かけられないなと思っていたけれどそこまででもなかった。順調に予定を済ませて、行きたかった場所にも行けた。
それから予定外だったけれど、新しい靴を手に入れた。ここ数年履いていた革靴のパーツが壊れてしまって、直すかどうか、新しいものにするか、ということをここ数か月考えていたのだ。人でもものでも、出会う時には出会うようになっている。ちょっと散財したことへの言い訳っぽくも聞こえるけれど、その出会った靴は20年前、大学生の頃にも履いていたラバーソールだった。あの頃毎日のように履いていて、履きつぶした靴。昔履いていたものと全く同じという訳ではないけれど、見た瞬間グッときてしまった。聞くと、あまり若い人には刺さらず、40代で私のようにグッとくる人が多いそうだ。分かる。しっかりそのゾーンに私もはまったという訳です。
朝、猫がものすごい恰好で隣で寝ていた。今日も信頼してくれてありがとう。撫でようと左手を出すと、猫の両手で掴まれて舐めたり甘噛みされたりギュッとされたり。そのまま猫の上に置いたら「それは重いからやめろ」とでも言うように、後ろ足でけりけりされて私の左手はどけられた。私は本当に、猫のこういうところが好きである。慕われていると思って人間がべたつきはじめたのを察知しての急転直下。
しかし台風の余波がおさまらない。猫もずっと寝ていて、人間がキッチンに立つとおやつをねだり、また寝るというルーティンを決め込んでいる。
この台風の期間、同じ県外で土砂災害があってヒヤッとした。近年土砂災害のニュースなんて、ものすごく増えているのにも関わらず、自分の家からの距離感も分かるような場所で起こると何か本能的な怖さを感じて、次の瞬間に自分の薄情さも感じた。もちろん近くで災害が起こるリスクがあれば身を守る対策をする必要はある。けど、私は今回のニュースを聞くまで、そういうことに関して自分事感がものすごく薄かったなんだなと思った。
仕方ない部分と、想像力の欠落、両方が混在している。
7月に見た映画、『関心領域』と、同じ構造だと思う。今世界で起きている悲劇も一緒。どんなことが起きていても、自分の目の前に来なければ私たちは生活を続ける。それは、続けないと暮らしていけないということと、目の前にないから続けられるということの両輪でもある。自分事すぎると、それを変えるためのアクションなどやっている場合じゃないこともある。だから、少し離れたところにいる人が行動する。そうやって世界はまわっているのだろうけど、自分の想像力の足りなさに、こうしてよくがっかりしている。
がっかりしている暇があるなら何かしろよ、私。と思いなおして今日も本を読んだりラジオを聞く。防災グッズも、びっくりするくらい揃えられていないから、これも徐々に。
遠くや少し近くで起きたことの余波は、どんなことでも自分に余波としてやってきている。