自分は大丈夫な母親なのかどうかを確認するために

11月25日(月)

今日は相談支援事業所に行った。
ここにはこれまでも何度か相談に行っている。
長男の発達障害がわかって色々困って、困って困って当時の記憶がないくらいに悩んでいた時にここに辿り着いて、話を聞いてもらって以来、お世話になっている。


今日言われたこと。

  • 定型発達に近づけようとしない方がいい

  • 立派なお母さんになろうとしなくていい

  • 時間を守らせるのは至難の技である。

  • 長男は、わがままや甘えで「やりたくない」と訴えているのではない。


支援級に入った長男は、比較的落ち着いて登校できている。
だけど「交流」という、通常級に混じって過ごす時間が苦手だ。
2コマは頑張れるけど、3コマは頑張れないらしい。


私はむしろ、今の長男に交流が必要なのかどうかは疑問だな、と感じながら過ごしているけれど、今お世話になっている支援級の先生は、とってつけの支援級担任ではなく、ちゃんと専門的な勉強をしている特別支援の先生だ。
要は、プロ。
困ったことはなんでも相談している。
この先生の人柄や子ども達に向き合う姿勢はとても素晴らしい尊敬していて、信頼できる。
経験もあるし、だからこそ先の見立てもできる。


だから基本的には、先生と相談しながら、先生にお任せ、というスタンスを取っている。
だけど、難しい自閉症児。
特性のパターンみたいのはあったとしても、1人1人、出方が違う。
だから、プロでも難しいし、絶対解はない。


では、母親である私はどうか。
長男が小学校に入るまで、定型発達児だと思って育ててきた。
1年前、長男に発達障害があることがわかった。
そこからできうる限り、情報を取りに行ったり、いろんなところに出向いて相談したり、自分なりに勉強したりしてきた。
だけど、理解が追いつかないし、心が拒否して読めない本もある。


そんな状態だから、自信がないのだ。
だから、プロの言うことにすがりたくなる。


でも、先に述べた通り、発達障害というのは一人一人表面に出てくるものが違っていて、さらにそこにい環境要因が加わる。
そして、育ててきた母親だからわかることという「母の勘」的なものもあり、これがあながちハズレじゃない。


プロといえど、型通りにいかない発達障害児教育。
かといって、産み育てた母親だからちゃんとわかっているかと言うと、全然理解が追いつかない発達障害児育児。


だからこそ、「その子に関係する人たちの相談が大事」と言われるのかな。


今、この子には何がベストなのか。
どこまで先を見て、どういう考え方に基づいて進んでいくのか。


それと、長男が「行きたくない」「やりたくない」と訴えることに関して、どこまでが真っ当な訴えで、どこからがわがままなのかがわからない時がある。
賢い子なので、大人を欺こうとして言っているのではないかと。


それも、「普通に社会でやっていくには」を前提とした私の定規で測った考え方だ。
話を聞いてもらって、そういうことではないのだということがわかり、「子どもの言うことを信じてみよう」という気になれた。


いつか通常級に戻さなけばならない、定型発達の子達に混じって「普通に」生活していかなきゃならない。
という思いが、私を焦らせる。


この社会は、発達障害の人たちが生きるには、あまりに生きづらすぎる。


あなたが明日アメリカの先住民族が暮らす村に行って、そこに伝統的に伝わるやり方で子育てしろ、と言われたら、できるだろうか?
発達障害児の子育ては、それくらいの難しさがある。
私がこれまで生きてきて自然と身につけてきた「常識」は彼らには「非常識」なことである。
私がこれまで育ってきて、見聞きし、自分が受けてきた子育ての方法では、彼らを育てることはできない。


発達障害の人は、定型発達の人よりも、少し多くの助けを必要とする。
それは本人もそうだけど、その子を育てる親もまたそうなのだと実感する日々。


「大丈夫。あなたの進んでる方向は間違ってないよ。あなたの考えや直感を信じて大丈夫だよ。」


と言ってもらいたくて、私はこの相談支援事業所に行っているんだと思う。


「大丈夫ですか?この子はちゃんと育ちますか?この子は幸せになれますか?」「私は母親として大丈夫ですか?間違ってませんか?」


時々確認しないと、怖くて不安で自信がなくて、とても立っていられないのだ。


「お母さんが感じている【半分】を信じていいと思う。」

と言われた。


【半分】とは、

『「普通の人たち」の中で過ごせるようにしていかなければ』

が半分、


きっと大事なのは、残りの半分である、

「この子はこの子らしく生きていける環境の方がいいのに。周りに合わせる必要性ってなんだろう。無理矢理集団の中過ごさせる必要性ってなんだろう。学校という社会が、長男を生きづらくさせている。」
という気持ち。


長男と、「社会」の間で板挟みになっている私もまた辛いのだ。

いいなと思ったら応援しよう!