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とある哲学生が卒業論文を作成して学んだこと

ついに卒業論文の口頭試問が終わった。
これで中央大学としての活動は完全終了である。

この口頭試問中のやり取り、及びフィードバックにはとても考えさせられるものがあった。これから社会人になるにつれて、言語化をしておきたい。

卒論はどういうテーマで、なぜそれを選んだのか。

卒業論文のテーマはこんなものにしていた。

現代日本の若年層における「自分探し」が「幸福」に繋がる手段であるかどうかの考察

ざっくり要旨を抜き取ると「自分探し」とか「自己分析」って今のやり方でええの?という問題提起の卒業論文である。

自分の周りは「〇〇(哲学者)の〜〜による考察」という表題を取っている一方で、上記は特定の哲学者に注目していないタイトル設定である。単純に、現代の自己分析における問題提起から問いをスタートさせてみた。

哲学を選んだ理由

卒業論文は、自分にとっての哲学生活におけるピリオドである。
もちろんこれ以降も学んでいくが、おそらくアカデミックに哲学で何かをやるわけではない。

哲学における自分のテーマは「アイデンティティ」であった。

哲学を選んだのは高校生からだが、当時「哲学は異質性を肯定してくれる」という淡い期待を抱いていた。

当時は心を許せる友達もおらず、コミュニティからも距離を置かれていた。
今思うと自分のコミュニケーション自体に問題があったと自責しているが、当時それを僕自身は「多分俺はなんか変わっている部分があるんだろうな」と思っていた。

その「変わっている」や「コミュニケーションの問題」を言語化すると、単純にKY(空気読めない)なんだと思う。というより、自分の信念にそぐわない空気に染まるのが嫌だったなと思う。その空気(愚痴を言うとか、本質的じゃないヒエラルキーとか)に染まるくらいなら1人でいいやと思っていた。だから正直、自分に要因があるなとは思いつつ大幅な修正しようとは思っていない。

ただ哲学や文学は、そんな自分を肯定してくれるんじゃないかと思って哲学専攻を選んだ。だから、哲学を通して自分のアイデンティティを保ちたいみたいな甘い考えを抱いて哲学を勉強しようと思っていた。

(ここで甘いと表現したのは、この段階では他者と協働することそのものを避けていたから。自分から自分を認めてもらおうという努力や寄り添いが一切なかったため。)

自己分析における問題意識

就職活動をすると「自己分析をしよう!」と言われることがある。
俺もその姿勢にはすごく賛同していて、自分のことを知ったほうが他者と働きやすいし、幸せになると思っている。

ただ、現代の自己分析の「やり方」に問題があるんじゃないか?というのはずっと思っていたし、今も思っている。

決められたフレームワークを用いて、自分の強みや弱み、キャリアを言語化していく。フレームワークは決められた型に沿って自分を分解するものなので、どうしてもロジック的になる。ロジックを使うということは、「正しいやり方」で考えるということなので、みんな同じ答えになりやすい。(数学とか科学全般は同じ答えを目指す。)

結果として、自分の強みを説明するものとしてこんなものが出てくる。

・課題解決力
・巻き込み力
・コミュニケーション力

強みを探す旅の「起点」としては良いと思う。どんな巻き込み力なのか、どんなコミュニケーションが得意なのか、などなど。

ただここで終わってしまうと全くその人の本質に触れている気がしない。
エピソードも、サークルや長期インターンの話が多い。もっとみんな色々考えているはずなのに…。

そんな気分の中で、人事の人がこんなことを言っていた。
その言葉で火が付いた。

「強み」「弱み」の一覧とかで検索してみなよ!
たくさん出てくるから、自分に当てはまるものを選べばいい。

正直手段としては良いのかもしれない。でも、それで終わってしまっては意味がない。自分の正体に正解があるのか?Googleが答えをもってるのか?

なにより、自分自身の実存を月並みな言葉で表現されていいのか?
こんなに物事を単純化してしまっていいのか??

特定の人事が悪いとか、就活生が悪いという次元の話ではない。
むしろ、こういうやり取りが存在してしまう構造が問題だなと思った。

たまたまネットで拾った言葉で自分を説明することなんてできない。
すごい悲しいなと思った。

そのため、卒論という手段を通して批判及び代案を提示しようと考えた。

論文の総評

Good / Moreそれぞれを教授からはいただくことができた。
担当教授と、それ以外の教授の2名から質問をもらう形式だった。

「それ以外の教授」は、自分にとってすごい印象に残っている方だった。
不良から教授になった出で立ちの人で、そのバックグラウンドから「異質なアイデンティティ」みたいなものを肯定してくれる。大学2・3年生の頃は、よくその先生の授業を聞いていた。

単純化の罠

その先生からのFBで、「べんべんまるくんは年々単純化する傾向にある」と言われた。大学2年(3年前)の頃からの様子を覚えてくれていて、3年の取り組みという観点でのコメントだった(えぐい)

この場合の「単純化」は、物事を自分のパターンで解釈し、素早く処理する力のこと。大学2年からビジネス経験を積んだからだと思う。既存の問題を過去の認識に当てはめて迅速に処理する力が伸びた。

その一方で、一つ一つ立ち止まってじっくり考える批判的思考が弱まった。
アイデンティティを大事にしていたのに、外部の基準やフレームワークに沿って物事を処理することに慣れすぎてしまった。自分のアイデンティティ、判断基準に照らして物事を吟味する癖がなくなってしまった。結構刺さった。壮大なブーメランやんけと思った。

確かに昔のほうがよく考えていた。
考え方がわからない中で、それを模索しながら一生懸命考えていた。

今は考え方のストックがある。そのため、それっぽい答えが思いついたら飛びつくようになった。世の中の価値基準(例えば、市場価値は高いほうがいい)というものに何の疑問も抱かなくなった。

すごくありがたいコメントだなと思った。

これから

一旦フレームワーク等を手放して、現象をまざまざと視る癖をつけようと思う。

幸いなことに、内定先もそのようなゼロベースで考える人が多い。

今はどこでもいつでも「アイデンティティ」を突き通すことが正しいとは思っていない。
でも、「アイデンティティ」を手放したくないとも思っている。

自分のアイデンティティを保ちながら、限界点まで世界に寄り添う。
もし寄り添うことでアイデンティティが崩れるなら、その環境とは袂を分かつ。

その過程で、単純化しすぎないように一つ一つ細かく吟味していく。
上記で批判した「自己分析」も単純化の罠だろう。その単純化の罠を、あくまで俺は好きではないので、自分なりのやり方でアクションを起こしていこうと思った。


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