悲劇の左腕 清水秀雄が生きた半世紀 vol.1-1
街の開発と清水秀雄の生誕
鉄道敷設法。
1892年、鉄道庁長官の井上勝によって提唱されたこの法律の中に、鉄道建設予定線として山陰線が上げられていた。この翌々年には、山陰を東西に横断する姫路~鳥取~境線を敷設する事が正式に決定されたが、建設には、元来の景色に愛着を持つ住民や、若者離れを懸念する人々の反対、海沿い特有の立地や資金面、他にも多くの困難を乗り越えなければならなかった。
それから10年。1902年11月1日、幾つもの困難を乗り越え、遂に境~米子~御来屋(みくりや)間の鉄道が開通。米子駅で執り行われた開通式には多くの住民が集い、その数1000人に達した。真っ昼間だが花火も打ち上がり、沿道には国旗を振る人や提灯行列をする人達まで現れた。その後も山陰線の開発は続き、1912年には予定されていた全線が開通。現在でも山陰線は在来線として日本で最も長い路線となっている。
鉄道の開通により米子は開発が進む。開通前はなかなか行く事の出来なかった山陰に新たな活路を見出そうと、京阪神の商工業者らが鉄道で多くやって来た。一気に街は活気付く様になり、開発をより後押しする形となる。
1918年7月8日。そんな開発が進む米子の地に、清水喜一とアサの息子として、のちの大投手、清水秀雄は生誕した。
清水秀雄は8番目の子供である。長男の伊三郎(1901年7月14日生)、長女のチエ(1903年2月13日生)、次女のシヅエ(1905年5月25日生)、三女スミ子(1908年1月2日生)、四女綾子(1910年4月24日生)、五女八重子(1912年8月14日生)、六女芳子(1915年10月11日生)、そして次男の秀雄と続く。長男伊三郎が1901年に最初に生誕したが、その後の6人はみな、女の子であった。そして、その伊三郎は産まれた翌年に亡くなってしまい、その16年後にようやく次男の秀雄が産まれた。待ちに待った2人目の男の子。父・喜一の秀雄への期待は大きかった。喜一はスポーツ嫌いで、自分の意思は曲げない典型的な頑固親父である。米子鉄道局で働いており、家庭も当時では裕福であった。
「とにかく沢山勉強して、偉い人になるんや」
跡取り息子になる秀雄には一段と厳しく接し、事ある毎にそう言い聞かせていたという。そして父・喜一が何より苦労したのは、秀雄の産まれ持った「左利き」を矯正する事であった。
清水喜一が家を構えていたのは、米子の道笑町である。当時町には公認のグラウンドがあった。秀雄は小学校に上がる前から町内の野球チームに入り、そこでプレーする様になる。この頃には生まれつきの左利きもすっかり直され、秀雄が最初にボールを握ったのは右手であった。秀雄は身体は至って丈夫で、何事も常に先頭に立ち、そして悪戯好きのガキ大将として育ってゆく。そんな秀雄を、頑固な父・喜一が良く思う筈が無かったが、まだ幼いからと目を瞑っていた。
米子の野球熱
当時米子は、鳥取市と並んで山陰随一の野球熱を持っていた。各学校に野球部(今で言う少年野球チーム)があり、雪国では珍しく対外試合も行なっている。秀雄も後に米子中でチームメートとなる井上親一郎(国鉄初代主将)や成田啓二(国鉄初代開幕投手)と市内でしのぎを削っていた。大正三大投手と呼ばれ、のちに毎日の監督を務めた湯浅禎夫も米子出身である。阪急の初代エース、北井正雄は出身こそ島根なものの、米子鉄道局野球部でエースとして躍動していた。小さな子供が近所で野球に触れるのは、米子では当たり前の事であった。
明道小学校へと入学した秀雄。そして3年生になる時には、小学校の野球部へと入っていった。
「何もお前が好きこのんで、そんな危ない遊びをせんかてええ。それよりもっとよく勉強して、偉い人になるんや」
そんな父・喜一の言葉だったが、ガキ大将の秀雄は聞く耳を持たなかった。喜一の堪忍袋の緒が切れるのは、もう少し先の話である。
秀雄はすっかり、野球の魅力に取り憑かれていた。