#69 癒し ≒ サバイバル 説
こんばんは。id_butterです。
人生で最高に不幸な時に恋に落ちた話 の69話目です。
何度か「学び」について書いた。
そして、「癒し」っていう言葉も嫌いかもしれないと今思っている笑。
スピリチュアル界隈で「癒し」という言葉をよく聞く。
その度に引っかかる。
うっかり癒されたりしない、ふわふわ言葉に騙されないぞみたいな気持ち。
おそらく、うさんくさいからだ。
苦しんでいるひとはそのひとなりの理由があり、そんなに簡単に癒せてたまるものか。こっちは40年もこじらせてるんだぞ。
けれど、最近「癒し」という言葉の正体がわたしなりに理解できてきたので、今回書いてみようと思う。
この「癒し」は、=心の傷を治すこと、と定義する。
「癒し」という響きからすると、ただただあったかい温泉に浸かったりマッサージを受けるといったような気持ちいいだけのイメージを受ける。
けれど、実態は厳しい。
言語化してみたら、癒し ≒ survival でしかないと思った。
なんで書くのかはわからない。
わたしと同じように、疑り深いひと向け?かもしれない。
騙されるな!みたいな警告?(余計なお世話すぎる。)、あるいは今つらいひとへのエール、になれたらと願ったりしてみる。
ヒーリングとかカウンセリングとか受けたことのあるひとってどれくらいいるのだろう。
わたしは何度も受けたし、挫折したこともある。
なぜ挫折するかというと、つらいのと料金が高いせいだ。
今しんどいから楽になりたくて行くのに、なぜか今より数段しんどい。
そして、しんどくて楽にならないのに、高い。
終わりもよくわからない。いつ終わるのか、どうなれば終わりなのか。
失礼ながら、こんな風に感じるのはわたしだけかと思っていた。
けど、違った。
「癒し」のしんどさについて説明してみる。
そのSTEPは3+1段階からなる、と今のわたしは考えている。
全部で4つのSTEP、いかにもしんどい。
セミナーとかyoutubeなら、3 or 5 STEP にしたいところけど無理だった。
例えば、わたしが痴漢に遭った事実と記憶には隔たりがある。
事実だけを見たら、セックスでやっている以上のことなんて起こってない。
けれど、痴漢に遭った記憶は、事実にプラスしていろいろなものを含む。
抵抗できなかったことへの後悔だったり、そんなわたしを責める母の言葉だったり、それに反論できない自分の悲しさだったり、自分が汚された感覚だったり、大量の感情と記憶が洪水のように溢れている。
それらは、わたしの中にしか存在しないものであり、今も生きてうごめいている。
例えば友人に「なんで逃げなかったの」と言われたらさらに嫌な記憶は追加されるみたいに、さらに傷が広げられることだってある。
他のひとにその一部がちらりと見えることもあるかもしれない、けれどそれはわたしに見えているものとは別のものだ。
自分の記憶がどんなものなのか。
「癒し」のため、カウンセラーやヒーラーの方に説明する必要が出てくる。
心の底の方に沈んでいる記憶を恐る恐る引きあげる。
見えてきた醜い、膿んでいる記憶がゆっくりと見えてくる。
何度も何度もその記憶と新しく出会い、対峙し、気持ちを味わい、その度に傷ついた自分が蘇る。
カウンセラーやヒーラーの方に説明し始めると、大体は急に涙が溢れて止まらなくなる。涙が止まるとしたらそれは「癒し」が終わったときだろう。
心の底の方に、そういう記憶がいくつもいくつも沈んでいる。
水面からはいくつあるかわからないし、見えているだけではなく底の泥の下にさらに埋まっているのかもしれない。
膨大な時間をかけて、ひとつひとつの記憶に向き合う。
いつ終わるのか、気が遠くなる。あきらめてしまいたい。
そもそもこれをやったからって何になるの。
という答えの出ない問いとも戦う羽目になる。
努力したらどうにか回避できたはず、とか、自分のせいあるいは誰かのせいなんだ、という原因と結果の関係からわたしは逃れられない。
今までの思考パターンの中にそのまま止まる=変わらないことの方を選択してしまいがち。変わることが怖い、あるいは楽なのだろうか。
心にも慣性の法則とかあるんだろうか。(急に理系ぶってみる。)
どうにかできたはず、だったらこれからはどうにかできるはず、そう思いたいのだろうか。
全部正解かもしれない。
わたしは理屈で理解した方が、安心する。
そしてたぶん、心で感じにくくなってしまっている。
本当は、正解が心で分かるはずだった。
ここで受け入れがたいのは、このつらい出来事は自分で起こしていると認めなくてはいけないことだ。
そうすれば離れられる、けれど受け入れがたい。
いまだにできていない気がする。
この3+1のSTEP【向き合う・あきらめる・手放す → 赦す】がうまく終われば、おそらく癒される。(道半ばなのと、わたし流の書き方なので、もしご意見あればコメントください🙇♀️)
癒されるとどうなるか。
繰り返される同じような出来事が起きなくなる。
痴漢に遭ったわたしはなぜか繰り返し痴漢に遭っていた。
それが終わった。
父親のような上司に努力しても認めてもらえない。
それも終わった。
現実が変わることはわかりやすいサインのひとつだと思う。
世界と仲良くなれた印。
わたしはまだ途中なので、もっと得られるものはあるかもしれない。
たぶん、もっと心が平穏になるのだと思う。
何が起きても、自分がどう捉えるかで現実は変わるのだ。
平穏な自分に見える世界は平穏なはずだ。
ここからは補足。
ヒーリング、という新しい分野・見えないサービスに払うお金はどれくらいが適切なのか、わたしは答えを持たない。
けれど、上記の理由からわたしはお金を払っている。
そして、自分のためにお金を払ってあげたくなるということも大事なことだと思っている。
今、自分に向き合い、自分の「癒し」に取り組めるようになったのは彼と出会ったからだ。
彼に、嘘がつけない。
自分にも嘘がつけなくなった。
変わらざるを得ない。
ここにそのまま立っていようとしても、その地面が崩れそうになっている。
だったら彼の隣に立って、歩きたい。
そう願ってしまった。
変わりたいわたしが彼を呼んだのか、それともいつまでもグダグダしているわたしに嫌気がさした神様に派遣されてきたのかはわからない。
ただ、彼はわたしの人生に特別な影響を与えた。
そしてそれによりわたしは苦しさを伴うものであるのにも関わらず、あたらしい自分を目指すよう追い込まれた。
そういう状況が整った。
人参をぶら下げて走る馬は、自分をどう思っているかわからない。
けれど、わたしは一応自分のために走っていることくらいは自覚している。
それでも、人参がなかったらこんなつらい道を走り続けることはできない。
つまり、できないことはできない。
どうしても必要なことなら、時期が来たらできるようになる。
結論だけど、あたりまえすぎる笑
ただ、必要以上に自分を責める必要もない。
すごく逆説的なことが起こる。
恋をしてしまって、今の自分がいやになって、どうにか少しでもマシになりたいとか思って、「癒し」に手を染める。
それなのに、最終的なゴールは、今の足りない自分をそのまま受け入れるってことだったりする。
まじか40過ぎの離婚女やで、ってなる。
けれど、こうも思えた。
まだまだ足りないけれど。
トラウマを克服した人を、サバイバーとよんだりする。
まさに。
いや、ワンピース読んだことないのですが。(これしか知らない)
今日もありがとうございました。
読んでくださった皆様に明日いいことが起こりますように。
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