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湖に石を投げる。

こんにちは。id_butterです。

わたしは、ひとに影響を与えるということがとても怖い。

最近、スピリチュアルの話をしている。
けれど、もともと嫌いだった。
理由はひとを傷つけるからだ。

こども時代に母を傷つけたことを以前書いた。

お母さんはわたしに怒っているんじゃない、わたしの中のお母さんに怒っているんだ。

小学生だったわたしに怒り狂う母に告げた言葉。
そのときの母の表情を忘れたことはない。
けれど、これはわたしの言葉ではない。
わたしの中の誰かの言葉、もしくは上の方の誰かのお告げだ。
小学生である表のわたしはこんな本質的なことを理解してはいなかった。

だから、よく母はわたしに言った。

バターちゃんはお母さんを馬鹿にしているんでしょ。

そんなつもりはまったくなかったから、当時は意味が理解できず、ただただ悲しい気持ちだった。

大学生のころは、よく友人を泣かせた。
わたしが頭に浮かんだことをぽろっと口に出すと、それは ”本質” なのだ。

働いていたキャバクラでもやらかした。
胸を触ろうとしたおじさんのはげ頭を殴りつけ、「かわいそうなひと」と言い放った。そのおじさんの悲しそうな顔も覚えている。
幸いにも店長もNo.2の女の子も「こんなキャバ嬢見たことない」と言って爆笑してくれたけど、何様だ。

以前書いた、わたしの中の誰かである ”ハジメちゃん” はわたしのハイヤーセルフだ。
彼女をを封印したときから、今もずっと思っている。
誰かを泣かせたり、怒らせたり、そういうことが怖い。
この力は誰も幸せにしない。呪いだ。
その思い込みを今でも振りほどけないでいる。

今、それを振りほどこうとしている。
怖い。

湖に石を投げる。
それは例えば、目の前の誰かに降りてきたお告げを伝えることだ。

あるひとが、言ってくれた。
「そんなに見えるのにもったいない」と。
でも見えているものが本当かどうかわからないし、と答えながら、これは本心じゃないと気づいた。
わたしはごまかしている。

湖に石を投げた、そのあとに広がる波紋が怖い。

嘘だと思われるのが怖い。
頭がおかしいと思われるのが怖い。
だけじゃない。
その人を傷つけるのが怖い。
責任が取れない。
…嫌われるのが怖いのだ。
距離をおかれることもあるかもしれない。

だけど、湖に石を投げない選択は、自分に授かったギフトを否定し続けることだ。
そのギフトが本意であろうとなかろうと、自分以外になることはできない。
いただいたものを愛することが道に沿っている。

なので、言ってみた。

友人に。

そんなにつらいなら、それは神様からのあなたへの質問だと思う。
そのままでいいの?って聞かれているんだよ。
行動の結果、得たものが充実感や楽しさだったらそのままでOK。
疲労感や不快感が残ったら、もう一度考えてみたら?って言われてる。
神様は「あなたらしいしあわせ」を望んでる。

彼に。

あなたの役割は「皇帝」で、本質は「太陽」
皇帝は理想を描くことが仕事。
理想を描けば、周りが実現してくれるから、手を動かす必要はない。
ただし悪いことも実現するから、自分をいい状態に保つ必要がある。
けれどそれは私利私欲を満たすためのものではなく、
あなたの中にある純粋な善意を実現するためにある。
その善意を表すのが「太陽」
どんなひとであっても、どこにいるひとでも平等に照らす。
誰からも嫌われない、そもそも好き嫌いの概念の外にある。

20年前とは違うので、手順を踏んで、自分の領分をわきまえた。
 ・相手の同意を得る
 ・結果は問わない (コントロールを手放す)

これでよかったのか、真ん中の自分に聞いた。
実は言う前も、言っていいのかから何回も聞いた。
書いた文章も、彼女に1行1行全部みてもらった。

でも、気づいた。
内容は大事じゃない。
奥に「愛」とか「信頼」が詰まってるかどうかなのだ、結局のところ。

だから結果はわからないし、気にしないことにした。
(半分嘘。気になる。)
今回重要なのは結果ではない。
わたしが言うという行動をとったことなのだ。

わたしは、わたしの持っているすべてを愛する。
そう決めた。

最近出会うひとたちは、わたしがわたしらしくあることを肯定してくれる。
未知の世界に進むわたしの背中を押してくれる。
離れていくひとのことばかり考えていたけれど、得るものだってあるのだ。

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