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【人物月旦 #06】😁友人のデンマーク人のはなし

はじめに
このエッセイでは、登場人物のプライバシーを守るため仮名を使用しています。物語や感情は真実に基づいていますが、名前にとらわれず、本質や物語そのものを楽しんでいただけることを願っています。

👇本編要約

シドニーで出会ったデンマーク人の友人との交流から始まるエッセイ。シドニーのホステルで出会った彼は、ヒッピー風の旅慣れた人物で、独自の視点や哲学が印象的だった。彼が何気なく教えてくれた情報が後に大きな転機をもたらす。特に航空券の話は、後に香港滞在中に驚きとともに再確認され、イギリス行きの夢を現実にする道筋を開いた。このデンマーク人の友人との偶然の出会いと何気ない日常会話によって、その後の人生が変化するきっかけとなった物語。

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「人物月旦」シリーズ第6回は、シドニーで知り合ったデンマーク人の友人トーベンについてお話しします。彼とは、シドニーのキングスクロスにあるバックパッカーズホステルのドミトリーで出会いました。当時、そこには世界中から集まった旅行者たちが共同生活を送っており、その中でもトーベンは独特の存在感を放っていました。

やがて私たちはホステルを出てフラットを借り、他の友人たちと一緒に共同生活を始めました。文化も価値観も異なるメンバーと過ごしたその時間は、私にとってかけがえのない経験となりましたが、特にトーベンから教わった「ある情報」が、後に私の人生に大きな影響を与えることになりました。

その時は軽い雑談の中で彼が何気なく教えてくれたことでしたが、振り返れば、それが私に新しい視点や選択肢を与え、人生をより豊かにしてくれる一つの転機となったのです。今回、人物月旦の主人公にトーベンを選んだ理由は、まさにその出来事が私に与えた影響が大きかったかを振り返り、伝えたいと思ったからです。

彼の何気ない一言がどのようにして私に影響を与えたのか。そして、そこから広がった私自身の成長について、これからお話ししたいと思います。それでは本編をどうぞ。


トーベンについて

トーベンのファッションは、いつもどこかヒッピーのような自由な雰囲気を漂わせていました。色あせたTシャツにゆったりとしたパンツ、そして肩に無造作にかけられた布製のバッグ。いかにも旅慣れた風情で、見た目からして「世界中を旅したい」という彼の生き方そのものを表していました。

彼の旅路は、デンマークを出発点にして、点々と移動を重ねながらシドニーへとたどり着いたとのことでした。オーストラリアに来る前にはインドで半年間過ごしていたとも言っており、その時のエピソードを時折話してくれました。彼の見た目や語る内容から感じられるのは、ただ旅を楽しむだけではなく、訪れる場所ごとにその土地の文化や生活を深く感じ取ろうとする彼の姿勢でした。そんな彼の経験談は、私にとっても新鮮で、異なる世界を知るきっかけとなるものでした。

トーベンとの会話はいつも興味深く、彼の話には飽きることがありませんでした。ただ、その多くは残念ながら時の流れとともに記憶の彼方に消えてしまいました。そんな中でも、今でも鮮明に覚えているものもいくつかあります。


■食パンの話
彼が好んで食べていたライ麦パンについてのエピソードは、彼のユニークな視点を象徴するような出来事でした。

トーベンは、デンマークでも親しまれているライ麦パンを好んで食べていました。ある朝、彼が食べているパンを少し分けてもらったことがありますが、私の正直な感想は「小麦の食パンのほうが美味しい」というものでした。しかも、小麦の食パンはライ麦パンに比べてずっと安価で、私にとってはコスパの面でも選ばざるを得ない存在でした。いわば普通の選択をしていたわけです。

しかし、ある朝食の席で、私はふと疑問に思い、トーベンに尋ねました。「別にお金があるわけでもないのに、どうしてわざわざ高いライ麦パンを選ぶの?」と。その問いに対して、彼が取った行動は実に独特でした。

トーベンは私の目の前で、おもむろに私の小麦の食パンを一切れ手に取りました。そして、何の前触れもなくそれを力強く握りつぶしたのです。パンはあっという間に小さなボール状になり、私は唖然としてそれを見つめるしかありませんでした。

続いて、彼は自分のライ麦パンを手に取り、同じように握りつぶしました。しかし今度は、パンが丸くなるどころか、ぼろぼろと砕け散るだけでした。トーベンは得意げに「これが答えだ」と言い放ちました。

彼の主張はこうです。小麦の食パンはほとんど空気でできているから簡単に小さくなるが、ライ麦パンは密度が高く、腹持ちが良い。結果的には、ライ麦パンの方が得なのだと。それを示す彼の独自の「実験」は、根拠が薄そうではありましたが、不思議と説得力がありました。

当時のトーベンが誰からこの考えを聞いたのかは不明ですが、少なくとも彼は何の迷いもなくそれを信じているようでした。確かに、ライ麦はグルテンをほとんど含んでおらず、パンを膨らませる作用が少ないため、目が詰まったズッシリとした仕上がりになります。密度が高い分、噛めば噛むほど味わいが深まり、腹持ちも良くなるというのは理にかなっています。

しかし、当時の私もトーベンもそんなことは全く知らなかったはずです。それでも、彼の行動とその言葉には妙な説得力があり、「確かにすごいな」と感心してしまったのを覚えています。彼の理屈が正しいかどうかはさておき、その場で私に強い印象を残したのは間違いありません。

この出来事は、トーベンのユニークな視点や、日常の何気ないものに対しても新たな意味を見出す力をよく表しているエピソードだと思います。些細なことを「面白い」と思わせるその感性が、私にとっても新しい視点を与えてくれるきっかけとなりました。

■インドの話
印象に残っている他のエピソードとしては、彼がインドで過ごした半年間のエピソードです。彼はその期間、インドの雑踏の中で様々な経験をしたようですが、特に衝撃的だったのが「路上での野宿」にまつわる話でした。

お金が尽きてしまったトーベンは、どうすることもできず、仕方なく路上で眠ることにしたそうです。朝になり目を覚ますと、目の前には驚くほど多くの食べ物が置かれていました。インドの人々が、困っている彼に施しをしてくれたのでした。この経験を通じて、友人のデンマーク人は初めて仏教で言うところの「浄財」、すなわち困窮している人々に施しを行い、自らの徳を積むという考え方を知ったそうです。

それ以降、トーベンは「お金が無くなったら野宿をする」という独自の哲学を持つようになりました。もちろん、その考えがどこまで実際的だったかは別として、彼の話からは、インドでの体験がいかに彼の価値観を形作ったかが伝わってきました。

トーベンは、「インドは素晴らしい国だ」と目を輝かせながら熱く語り、その文化や人々の優しさに深く感銘を受けた様子でした。そして、「いつかまたインドに戻りたい」と語る彼の言葉には、懐かしさや感謝の気持ちが込められているように感じられました。

この話を聞いた当時の私は、インドという国に特別な興味を持っていたわけではありませんでしたが、彼の語りを通じて、物質的な豊かさとは別の次元での価値観を学ぶきっかけを得たのを覚えています。トーベンの目を通して見るインドは、ただの旅先ではなく、彼の人生観を大きく変えた特別な場所だったのです。

■航空券の話
トーベンが教えてくれた中で、もう一つ忘れられないのが「飛行機のチケットをどこで買うのが最も安いか」という話でした。これが後に私の旅の計画や行動に大きな影響を与えることになります。

当時は今のようにインターネットはなく、航空券の価格や旅行に関する情報を手軽に検索することなど全くできない時代でした。そのため、旅人同士の口コミが最も信頼できる情報源でした。特にバックパッカーたちが集まるホステルやカフェでの会話は、世界を安く旅するためのリアルなヒントに溢れていました。

そんな中でトーベンが教えてくれたのが、タイと香港についての情報でした。彼によると、タイ、特にバンコクは当時、世界で最も格安航空券が手に入る場所として有名だったそうです。各国へのチケットを扱う旅行代理店が数多く集まり、バックパッカーたちがこぞってタイ発券の航空券を求めて向かうのは当たり前の光景だそうで、世界を旅する人々はその情報を頼りにタイを目指し航空券を買うのだそうです。

さらに彼は、もう一つの選択肢として香港を挙げてくれました。当時香港は、バックパッカーの間で新たに注目を集めていた場所で、格安航空券が急速に広まり始めているという話でした。この「次の穴場」とも言える情報は、旅人同士の口コミの中でホットな話題だったのだそうです。
この情報を教えてくれた時、トーベンの話はどこか軽妙で、それが自分にどれほど重要な意味を持つかをその場ではあまり実感していませんでした。しかし、後にこの情報がどれほど役立つかを思い知ることになります。


帰国するため香港に向かう

トーベンから香港の話を聞いてからしばらく時が経ち、私がオーストラリアから日本に帰国する段になった時のことです。「人物月旦#04」で紹介した日本人の友人から譲り受けた日本行きのオープンチケット。その経由地が偶然にも香港でした。

しかし、その時点では、トーベンが教えてくれた「香港が格安航空券の穴場だ」という話など、すっかり記憶から抜け落ちていました。それも無理のないことでした。当時の私は、ビザが更新できない事実に直面し、帰国準備を進める中で、何よりお金の問題に頭を悩ませていたからです。さらに、日本人の友人をはじめとするオーストラリアで出会った仲間たち特にイギリス人の友人たちのとの別れを控え、気持ちの整理もつかないまま、ただ目の前の帰国という現実に向き合うことで精一杯でした。(詳しくは人物月旦#04

トーベンから聞いた香港の情報が私の記憶からすっかり抜け落ちてしまったのは、このような背景があったからでした。それが後に、香港でその記憶を思い出し、大きな発見へとつながることになるのですが、その時の私はまだそれを知る由もありませんでした。

そして、私は日本への帰国のために、経由地となる香港へ向かいました。香港はあくまで通過点であり、滞在する予定も計画もない場所でした。しかし、初めて訪れる土地ということもあり、少しの期待と大きな不安を抱えていました。事前に宿を決める余裕もなく、当時の私は「なんとかなるだろう」と無計画なまま飛行機に乗り込んでいました。

香港で新たな出会い

飛行機の中で、隣の席に座っていた一人の中国系青年が話しかけてきました。彼は私と同じくらいの年齢で、小柄で眼鏡をかけた、どこか落ち着いた雰囲気のある人物でした。話をしてみると、彼は香港出身で、留学先から一時帰国する途中だとのことでした。同年代であることも手伝って、私たちはすぐに打ち解け、オーストラリアでの出来事やお互いの旅の経験について話が弾みました。

私が香港は初めてで、お金もあまりなく、宿すら決めていないと打ち明けると、彼は少し驚いた様子を見せながらも、「それなら、安くていい宿を知っているよ。到着したら案内してあげる」と申し出てくれました。その言葉は、私にとってとても心強いものでした。彼の親切心を疑う理由もなく、私は「ありがとう!」と素直にその提案を受け入れました。

今振り返ると、見ず知らずの人に何の疑いも持たずについていくというのは、無防備で危うい行動だったと思います。知らない土地で、初対面の相手に全てを頼るのはリスクが伴うことです。しかし、当時の私はそのようなリスクに思い至ることもなく、むしろ「誰かが助けてくれる」という根拠のない安心感の中で行動していました。香港での滞在をどうするかも定かではなかった私にとって、彼の申し出はありがたい以外の何物でもありませんでした。

こうして、香港という異国の地での滞在が始まりました。トーベンから聞いた香港の話をすっかり忘れていた私は、ただ目の前に現れたこの偶然の出会いと流れに身を任せることにしたのです。この短い滞在が、後に私に大きな気づきと新しい視点を与えてくれることになるとは、その時の私はまだ想像もしていませんでした。

当時の香港を訪れる者にとって、啓徳(カイタック)国際空港は特別な存在でした。その空港は「世界で最も着陸が難しい空港」として有名で、ビルの合間を縫うようにして滑走路に向かうアプローチは、まるで映画の一場面のようでした。滑走路自体は海上に突き出すように設置されていましたが、その手前には密集した住宅地が広がり、飛行機の窓からは住人の生活感が直に伝わってくるほど近く感じられました。

その住宅地の一角に存在したのが、「九龍城砦(カウルーン・ウォールド・シティ)」です。この地域は、密集した高層建物が複雑に絡み合い、昼間でも薄暗い迷路のようなエリアとして知られていました。建物と建物を結ぶ無数のロープには洗濯物が干され、窓の外を見下ろすと、まさにその光景が眼下に広がっていました。飛行機のエンジンに洗濯物が吸い込まれはしないかと心配になるほどの距離感に、思わず息を飲んだのを覚えています。

九龍城砦は、当時から「無法地帯」として知られていました。麻薬の取引や非合法な診療所、ギャンブル場などが存在するといった話も聞こえてきましたが、私自身は外からその存在を知るに留まり、足を踏み入れることはその後もありませんでしたが、それでも、その異質な空間の噂と、飛行機の窓から見えた一瞬の景色が、強烈な印象を残しました。

飛行機が滑走路に降り立つ瞬間、機内には自然と拍手が沸き起こりました。今思い返せば、あの拍手には安堵と感謝の両方が込められていたのでしょう。啓徳空港での着陸は、他のどの空港とも違う特別な体験だったのです。このような光景は、当時の空の旅ならではのものだったのかもしれません。

これを書いていて、ふと記憶が蘇りました。当時の飛行機旅では、着陸の瞬間に乗客が一斉に拍手を送る光景を何度か目にしたことがあります。

あの頃の旅には、現代の効率的で安全が当たり前となった飛行機旅とは違う、どこか独特の雰囲気がありました。今では、着陸後の拍手を見聞きすることはほとんどなくなり、それ自体が一つの時代の象徴だったのかもしれません。旅の形が変わる中で、乗客が自然発生的に拍手を送る文化も、時代とともに消え去ってしまったのでしょう。

あの拍手は単なる儀礼や社交辞令ではなく、少し大げさかもしれませんが命を預けた旅路が無事に終わったことへの素直な喜びや、乗務員への感謝を共有する行為だったように思います。その拍手音が、今はもう耳にすることがなくなったのは少し寂しい気もしますが、だからこそあの瞬間が私の記憶に鮮明に刻まれているのだと感じます。

無事に香港に着陸し、隣に座っていた香港人青年の彼が案内してくれたのは、香港の中でも中心的なエリアである「尖沙咀(チムサーチョイ)」という街でした。

香港返還前の尖沙咀(チムサーチョイ)

尖沙咀は、香港返還前からそのネオン輝く活気あふれる雰囲気で知られていました。この街は、観光客や地元住民が行き交う商業エリアであり、目抜き通りである「ネイザンロード(Nathan Road)」を中心に、高級ホテルやブランドショップ、地元の市場が軒を連ねていました。一方で、リーズナブルなゲストハウスやバックパッカー向けの宿泊施設も多く、旅行者にとって便利な拠点となっていました。

当時の尖沙咀は、イギリス統治時代の影響を色濃く残しており、西洋とアジアの文化が交錯する独特の雰囲気を持っていました。ヴィクトリアハーバーに面した海沿いのエリアからは、香港島のビル群が一望でき、夜になると海面に映るネオンの光が作り出す幻想的な景色が楽しめました。一方、ネイザンロード沿いでは混沌とした活気が渦巻き、露天商や地元の小さな商店が所狭しと並ぶ光景は、まさに「アジアのエネルギー」を感じさせるものでした。

尖沙咀の象徴的なスポットの一つが、重慶大厦(チョンキンマンション)です。この建物は、多国籍の旅行者が集まるゲストハウスや格安のレストラン、商店が混在しており、世界中の文化が交わる場所として知られていました。ただし、その混沌とした雰囲気から「治安が悪い」とも評され、地元の人々からは敬遠されることもありました。この街には、香港の多様性と矛盾が凝縮されていたと言えます。

尖沙咀に到着し、彼に連れられて辿り着いたのは「重慶大厦(チョンキンマンション)」と呼ばれる建物でした。外から見たその姿は、雑然とした外観に無数のネオン看板が掲げられ、何とも混沌とした雰囲気を漂わせていました。中に足を踏み入れると、ロビーは狭く薄暗く、活気というよりも雑踏の中でごった返していました。店や呼び込みの人々がひしめき合い、まるで小さな世界市場のような空間でした。そんな中、青年は迷いなくエレベーターに乗ると、私を高層階の一角にあるドミトリーへと案内してくれました。その宿泊施設は、建物の奥まった場所にあり、まるで隠れ家のような雰囲気でした。

そのドミトリーは簡素な作りでしたが、私にとって十分なものでした。当時の価格で、1泊わずか500円もしなかったと記憶しています。狭い部屋に二段ベッドがいくつか並び、共用のシャワーとトイレが設置されていました。決して快適とは言えない環境でしたが、私にはそれ以上に有難いものでした。何より、初対面の青年の案内がなければ、この宿にたどり着くこともなかったのです。

青年の言葉とストライキの中での特別な体験

青年は、私が宿泊できることを確認すると、「また明日会おう。明日、香港を案内してあげるよ。昼頃にここに来るから待っていて。明日、面白い状況を見せられるから楽しみにしていて」と言い残し、立ち去っていきました。その言葉を聞いた時、私は「面白い状況」とは一体何を指しているのだろう、と不思議に思いました。しかし、長旅の疲れと緊張感からか、その疑問を考え続ける余裕もなく、そのまま眠りに落ちてしまいました。

翌日、昼頃になると、前日に約束した通り、あの香港人青年が迎えに来ました。彼は開口一番、「今日は面白いことを見せてあげるよ」と言い、早速外に連れ出してくれました。彼が言っていた「面白い状況」とは、香港全域で行われていた大規模なストライキのことでした。このストライキは、公共交通機関の運行自体は維持しつつ、乗車料金を徴収しない形で行われており、電車、バス、スターフェリーなど、あらゆる交通機関がその日限り「無料」で乗り降りできるようになっていたのです。

少しこの時のストライキ背景を補足します。1980年代後半から1990年代にかけての香港は、中国への返還を控えた過渡期で、政治的・社会的な緊張が高まっていました。特に1989年には、中国本土で発生した天安門事件の影響が香港にも波及し、市民の中には自由や民主主義への不安を募らせた人々が多くいました。そのような背景から、労働組合や市民団体が主導する形で、さまざまな抗議行動やストライキが行われていました。

この全面ストライキも、その一環として行われたもので、特に市民の利便性を損なわず、運営側の意志を示す象徴的な活動として注目を集めていました。このような形態のストライキは、香港独特のやり方とも言えます。青年はこの状況を「香港の個性の一部」として自慢げに語りながら、私を街中へと案内してくれました。

尖沙咀と香港島を巡る

まず案内されたのは尖沙咀周辺。普段は賑わうこのエリアも、ストライキの影響でどこか緊張感を伴った活気に満ちていました。その後、私たちはスターフェリーに乗り、香港島へ向かいました。フェリーの乗船料が無料という状況も、私には信じがたい体験でしたが、青年は当然のことのように振る舞っていました。

香港島では、超高層ビルが立ち並ぶビジネス街を歩きながら、青年は興味深い話をしてくれました。「香港では、外国人と地元民で料金が違うことがあるんだよ」と彼は説明し、それが国際的な批判を受けているという話を続けました。

1980年代末の香港では、観光地や一部のサービスで外国人に対して異なる料金を設定する事例がありました。これは香港に限らず、一部のアジア諸国で見られる慣習でもありましたが、特に国際都市としてのイメージを誇る香港では、こうした二重価格制がしばしば問題視されていました。青年は「例えばホテルの料金や観光地の入場料で、地元民と外国人の間に差があることがある」と説明し、それが特に欧米諸国の観光客から批判を受けることが多かったと語りました。

このような話を聞きながら、私は香港という街が、外から見る華やかさだけでなく、内側には複雑な社会問題を抱えていることに気づき始めました。尖沙咀や香港島を歩く間にも、彼の話から香港特有の社会や文化の一端を垣間見ることができたのです。

青年の案内で訪れた香港の街並みは、私にとって新鮮な驚きの連続でした。交通機関が無料で利用できるストライキという異例の状況、尖沙咀と香港島を結ぶスターフェリーの風景、そして近代的な建物が並ぶ香港島の街並み。それらすべてが香港ならではの個性とエネルギーに満ちていました。

特に、外国人料金に関する話や、ストライキという抗議の形態からは、香港が持つ矛盾や、多様性の中で折り合いをつけながら進む社会の姿が垣間見えました。この日、青年が見せてくれた「面白い状況」は、私にとって単なる珍しい体験にとどまらず、香港という都市の奥深さを感じさせるものでした。

ふとした瞬間、なんとなくトーベンの言葉を思い出しました。「香港は航空券が安い場所のひとつだ」という話。特に深い意味があったわけではなく、旅人同士の雑談の中で聞いたものに過ぎません。軽い記憶の片隅にあったその話を、案内してくれていた香港人の青年にふと思い出して話してみました。

「それなら、尖沙咀にある旅行代理店を知ってるよ。僕もよく使うから、一緒に行ってみる?」と彼は即座に提案してくれました。なんとも軽やかなその提案に、「それじゃあ、せっかくだし見に行ってみようか」と、深い考えもなく興味本位でついていくことにしました。

驚きの航空券価格

尖沙咀にある旅行代理店は、雑居ビルの一室にひっそりと存在していました。中に入ると壁一面に手書きのフライト情報が貼られていて、どこか雑然とした雰囲気が漂います。しかし、その場で提示された価格の安さには驚きを隠せませんでした。日本行きの往復航空券が、なんと1万円程から。「本当にこれが現実なのか?」と耳を疑いながら、スタッフに念押しして確認しました。

さらに、試しにイギリス行きのチケットの価格も尋ねてみました。すると、片道で3万円程度だというのです。この金額を聞いた瞬間、胸の奥底に沈んでいた感情が一気に溢れ出すような感覚がありました。それは、オーストラリアでの生活の中で深めたイギリスへの特別な想いに起因するものでした。

イギリスへの特別な想い

オーストラリアでの共同生活の中で、最も長い時間を共にしたのはイギリス人の友人たちでした。彼らの独特のセンス。特にブラックジョークに象徴されるようなウィットに富んだ会話や、何気ない軽口に込められた深い意味。そのひねりの効いたユーモアに、私はすっかり魅了されていました。

彼らはしばしば皮肉を交えたジョークで真剣な話題を軽やかに切り抜ける一方、文化や歴史について話す時には、その誇り高さと奥深さが感じられる語り口でした。

また、家族の話を聞くたびにイギリスの家庭の風景が目に浮かぶようで、その土地への憧れを募らせるきっかけになっていました。田園風景、古い石造りの家。彼らが語るイギリスの日常は、私にとって未知であるがゆえにより一層魅力的に映りました。

しかし、私がイギリスへの思いを強すぎるほど持っていた理由は、それだけではありませんでした。ただ、このこだわっている話に関連してたくさんのサイドストーリーがあり、その話の中には沢山の私に良い影響をもたらした人たちがいます。それを書き出すとまるで長編小説のようなボリュームになりかねませんので、また別の機会を見て少しずつ紐解いていくことにして、ここではこの程度の記載にとどめておきます

イギリス行きの夢が現実に

旅行代理店で提示された3万円という価格は、そんな私の思いに現実の道筋を与えてくれるものでした。それは、これまで手の届かない夢のようだったイギリス行きが、初めて現実的な目標として立ち上がった瞬間でした。

私はその場で日本行きの1万円台の1年オープン往復航空券を購入しました。計画はこうです。一旦日本に帰国して資金を貯め、1年以内に再び香港に戻ってイギリスへ向かう。その計画が胸の中で明確に形を持ち始めた瞬間、未来が急に希望に満ちたものに感じられました。

トーベンの情報がもたらしたもの

トーベンが何気なく教えてくれた「航空券が安く買える場所」という情報は、私の旅をただの「安く旅をするための豆知識」ではなく、次の行動を起こす旅路へと変える大きなきっかけになりました。香港で偶然の出会いからその情報を確認し、その驚くべき価格を目の当たりにした瞬間、私は新しい可能性の扉が開かれたように感じました。思い返せば、トーベンの一言がなければ、香港の旅行代理店を訪れることもなく、イギリス行きという夢を現実的なものと捉えることもなかったかもしれません。

香港での経験とトーベンの言葉がきっかけとなり、私はイギリス行きの計画を立て、それを実現するための具体的なステップを踏み始めました。そして実際に、日本で準備を整えた後、再び香港を訪れ、そこからイギリスへと渡りました。イギリスでは3年半もの時間を過ごし、そこでの生活を通じて新しい文化や価値観を吸収し、かけがえのない経験を積むことができました。

トーベンとの偶然の出会いとその時に交わした何気ない会話が、今の私の人生に大きな影響を与えていることも間違いありません。

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