【人物月旦 #19】😢笑顔の裏側にあったものと解けない問いのはなし
足止め
先日の出来事。その日は、いつもと変わらぬ日常のはずでした。仕事を終え、駅へと向かい、電車に乗って帰宅する…
それは何の変哲もない、いつものルーティンのはずでした。しかし、駅の改札を抜けようとしたとき、異変に気がつきました。
電光掲示板には「運転見合わせ」の文字が点滅し、構内のアナウンスが繰り返し流れています。すでに多くの人が足を止め、ホームへと続く階段の前で立ち尽くしていました。スマートフォンを片手に情報を確認する人、不満げにため息をつく人…
それぞれが不測の事態に対応しようとしていました。
私はその場でしばらく様子を見ていましたが、電車が動き出す気配はまるでありませんでした。時間は20時に差し掛かり、帰宅ラッシュのピークも過ぎた頃。周囲には疲れた表情のサラリーマンたちが、ただじっと事態の収束を待っている様子が見受けられました。
駅員に状況を尋ねると、「復旧にはかなりの時間がかかる見込みなので、振替乗車をご利用ください」とのことでした。彼の声には申し訳なさが滲んでいましたが、トラブルは誰のせいでもありません。私は軽く頭を下げ、「ありがとうございます」と言って振替乗車の案内が書かれた掲示を確認しました。
振替乗車で帰るのが一番合理的な選択でしょう。案内に従って別の路線を利用すれば、遅くなりはするものの、それなりにスムーズに帰宅できるはずです。しかし、私はそこでふと立ち止まりました。
最近、運動不足が気になっていました。デスクワークが続き、通勤も電車移動ばかり。自ら積極的に体を動かす機会はほとんどありません。そう考えると、「この機会に歩いて帰るのも悪くないのではないか」という気まぐれな思いがふっと頭をよぎりました。
いつもと違う道を歩くのも、気分転換になるかもしれない….
振替乗車を利用すれば、ただ別の電車に乗るだけで終わってしまいます。しかし、歩いて帰れば、日頃は目にすることのない風景に出会えるかもしれません。少し遠回りになるとしても、それはそれで良いのではないか…
そんな風に、私は思いました。そう考えた私は、ゆっくりと歩き出しました。
静寂の倉庫街を歩く
普段は電車やバスの窓から通り過ぎるだけの道を、今、私は自分の足で歩いています。駅から離れるにつれ、見慣れたはずの景色が、どこか異質なものに感じられました。いつもは人々の生活の気配が漂う道も、夜の闇に包まれると、まるで別の世界に迷い込んだように感じます。
このあたりは、倉庫や工場が立ち並ぶエリアです。昼間はトラックが頻繁に出入りし、作業員が忙しそうに動き回っている姿をよく見かけます。しかし、夜になると、その賑わいは嘘のように消え去り、静寂だけが辺りを支配していました。
街灯がぽつぽつと道を照らしてはいるものの、その光は頼りなく、暗闇を完全に拭い去ることはできません。遠くにかすかに光るビルの明かりを除けば、周囲にはほとんど人工的な明かりはなく、静寂がより一層際立っています。歩いているのは私一人だけで、すれ違う人もごく稀にしか見かけません。まるで、街そのものが眠りについてしまったかのようでした。
足音がコツコツと響き、その音は妙に大きく聞こえるように思えました。
「寂しい場所だな……」
心の中でそう呟きながら歩き続けます。周囲の倉庫はどれも無機質で、大きなコンクリートの壁が延々と続いていました。やがて、その先に大きな橋のシルエットが浮かび上がりました。
寂しげな橋と不意の記憶
その橋は、相当に高く大きな橋で、歩道部分も広く、昼間なら散歩やランニングコースなる景観の美しい場所です。しかし、夜の静寂の中にそびえ立つその姿は、どこか不穏なものを感じさせました。大きな橋に並ぶ街灯が頼りなげに光を投げかけていますが、それはむしろ、闇をより一層際立たせているように思えました。
人の気配が一切感じられません。真っ黒な水面に映る大きな橋の光のシルエットがかすかに揺れているように感じられ、ぼんやりと漂っています。夜の水面は静かすぎて、まるで時間が止まっているかのように思えました。
なぜか、胸がざわつきます。
ただの橋なのに、なぜこんなにも居心地の悪さを感じるのだろう。何かが、この場所に私を引き止めているような気がしました。
そのとき、突然、ある人の顔が浮かびました。
——浅田さん。
思いがけず、彼の名前が頭に響きました。
記憶が、一気に蘇ります。
あの小料理屋。静かに酒を楽しむ大人たちの空間。
そこは、私にとって特別な場所でした。
その店を初めて訪れたのは、まだ私が30代の頃です。会社の先輩に連れられ、恐る恐る足を踏み入れました。狭い店内にはカウンター席が並び、落ち着いた照明の下で、静かに盃を傾ける常連客たちがいました。
そこに集まる人々は、40代後半から60代の人がほとんどでした。会話の端々から察するに、大企業の役員、弁護士や会計士といった士業の先生方、地元では有名な中小企業の社長といった、社会的な立場が高い人たちばかりでした。それなのに、店の雰囲気はどこか穏やかで、緊張感よりも安心感がありました。
皆、何かしらの地位を持っているにもかかわらず、ここではただの「酒好きな大人」として振る舞っていました。仕事の話よりも、昔の思い出や趣味の話が中心。利害関係がないからこそ、気兼ねなく会話ができる場所だったのかもしれません。
私はその中で最年少でしたが、人懐っこい性格もあり、自然と受け入れてもらえました。彼らが話す世界は、自分には未知のものばかりで、とても刺激的でした。興味深い話が次々と飛び出し、知らないことを知る楽しさに夢中になりました。
気づけば、私は週に何度もその店に通うようになり、多いときには週5回も訪れるほどになっていました。
浅田さんという存在
そんな常連の中でも、特に存在感を放っていたのが浅田さんでした。
彼は地元で代々続く出版・印刷業を営む会社の社長でした。40代後半の彼は、私にとって最も年齢の近い常連客でしたが、それでもだいぶ年上でした。しかし、年齢の壁を感じさせないほど気さくな人でした。
何よりも印象的だったのは、彼の明るさでした。
いつも場を盛り上げることに長けていて、ジョークのセンスも抜群で誰かが話せば、うまく話を広げ、気の利いた合いの手を入れる。聞き上手でありながら、話すときは話し手の意図を汲んで、面白おかしく展開してくれる、そんな人でした。
そのため、彼の周りにはいつも人が集まっていました。
「本当は教えたくないんだけどな」
そう言いながら、彼は私を隠れ家的な飲み屋に連れて行ってくれることもありました。老舗の居酒屋、知る人ぞ知る寿司屋、地元の人しか知らないようなバー。どこに行っても、彼は人気者でした。
「こういう店はね、ただ飲むだけの場所じゃないんだよ。誰かと話して、仲良くなって、また来たくなって、そういうのが一番いい」
彼は楽しそうによくそう言っていました。
彼はただの飲み仲間でした。しかし、私にとって彼は、大人の余裕を感じさせる憧れのような存在でした。
それなのに——
橋の上で立ち止まりながら、私は後悔にも似た感情を覚えました。
彼は、いつも楽しそうに飲んでいました。誰かを笑わせ、場を盛り上げ、時には真剣な話をすることもありました。
けれど——
時折、ほんの一瞬だけ、彼の顔に深い疲れが滲むことがありました。
そのとき、私は「大丈夫ですか?」と聞いたことがあります。
すると、彼は驚いたように目を見開き、それから、いつものように笑って言いました。
「大丈夫、大丈夫、気にしないで」
今思えば、あのとき彼は、本当に「大丈夫」だったのだろうか。
彼が飲み屋の常連たちの前で見せていた笑顔は、どれほど本物だったのか。
私は、その答えを知らないまま、この橋の上に立っていました。
この先に進むべきか——
それとも、引き返すべきか——
私の足は、自然と止まっていました。
一時の別れ
当時ある時から、私は海外赴任となり、小料理屋にも足を運べなくなりました。
海外での生活は、新しい環境に適応することで精一杯でした。日々の仕事に追われ、慣れない言葉や文化に苦労しながらも、なんとか生活のリズムを作り上げていきました。
最初は慌ただしさの中で、日本にいた頃のことを思い出す余裕もありませんでした。しかし、時折、ふとした時に、あの小料理屋のカウンターで過ごした夜が懐かしく思い出すこともありました。
「今頃、あの店では誰が飲んでいるのだろうか」
「浅田さんは、相変わらず場を盛り上げているのだろうか」
忙しさに流されるうちに、気づけば3年の月日が経っていました。
ようやく赴任を終えて東京に戻ることになり、私は久しぶりにあの店を訪れることにしました。
変わらぬ店内と、足りないもの
久々に足を踏み入れた店は、まるで時間が止まっていたかのように、以前と何も変わっていませんでした。カウンター席の配置も、壁にかけられた短冊のメニューも、そのままの形でそこにありました。
「おぉ、久しぶりじゃないか!」
常連の何人かが、私の顔を見るなり笑顔で声をかけてくれました。女将さんも、相変わらず穏やかな表情で迎えてくれました。
「おかえりなさい。元気にしてた?」
「はい、おかげさまで。久しぶりにここで飲みたくなって、来ちゃいました」
そんな他愛もないやりとりをしながら、私は席に腰を下ろしました。久しぶりの店の空気に、懐かしさと安堵を覚えます。
しかし、何かが違いました。
何かが足りない。
違和感の正体に気づくまで、それほど時間はかかりませんでした。
すぐに、私は悟りました。
浅田さんがいない。
想像しなかった知らせ
「今日はたまたま来ていないのかな」
そう思い、私は何気なく女将さんに尋ねました。
「浅田さん、最近はあまり来ていないんですか?」
その瞬間、店の空気が一変しました。
常連たちは一斉に言葉を失い、目を伏せる人もいました。先ほどまで賑やかだったカウンターが、急に静まり返ります。まるで、誰もその話題に触れたくないかのようでした。
女将さんはしばらく沈黙した後、ぽつりと口を開きました。
「……亡くなったの」
その言葉を聞いた瞬間、私は息を呑みました。
「えっ?」
信じられず、耳を疑いました。
「病気……事故ですか?」
口が乾くような感覚を覚えながら、そう問いかけると、女将さんは静かに首を横に振りました。
「自殺だったの」
その言葉が、重くのしかかりました。
信じられませんでした。あんなに明るかった人が。誰よりも場を盛り上げ、誰よりも人を笑わせていた人が。
店内は沈黙に包まれました。
常連の一人が、耐えきれなくなったようにぽつりと呟きました。
「馬鹿なんだよ……何も相談してくれなかったから」
その言葉は、どこか悔しさとやるせなさを滲ませていました。
耐えられなかった重圧
話を聞くと、彼の死の背景には会社の経営問題があったそうです。
浅田さんの奥様が浅田さんが亡くなって後に、親交のあった女将さんにも挨拶に来られたそうでその時に聞いたそうです。
彼の家業である出版・印刷業は、時代の流れとともに厳しさを増していました。紙媒体の需要は減少の一途をたどっており、かつては地域の名士とまで言われた家業でしたが、近年は経営が思わしくなく、彼は大きなプレッシャーを抱えていました。
それでも、彼は飲み屋ではそんな素振りを一切見せず、いつもと変わらず周囲を楽しませていました。しかし、実際には追い詰められていたのです。
資金繰りなどの圧迫に加え、親族や古くからの仕入れ先からも、「お前の代で潰すのか」と厳しい言葉を浴びせられていたといいます。代々続いてきた会社を、自分の代で終わらせることになるかもしれない。その重圧に、彼は自死を選択していました。
そして、ある夜、彼は思い詰めて、橋から飛び降りました。
——この橋から。
夜のうちに姿を消し、翌朝、彼の遺体は水面に浮かんでいたそうです。
消えない衝撃
その話を聞いたとき、私は言葉を失いました。
ただただ、重苦しい気持ちが胸に広がっていきました。
「そんな……あんなに明るかったのに……」
「いや、本当は苦しんでいたんだよ。でも、誰にも言えなかったんだ」
誰かがそう呟きました。
「俺たち、何も気づいてやれなかったんだな……」
「気づいたところで、助けられたかどうかもわからない。でも……」
沈黙が続きました。誰もが、言葉を探しながら、それでも何も言えずにいました。
消えない葛藤と、答えのない問い
私は後悔しました。しかし、その後悔は本当に意味のあるものなのか——そんな疑問が頭をよぎります。
もし、あのとき彼の異変に気づいていたとして、私は何ができたのだろうか。声をかけたところで、彼は本当の気持ちを話してくれただろうか。励ましの言葉をかけたとして、それが何の役に立ったのか。彼の苦しみを根本から取り除くことなど、私にできるはずがありませんでした。
それなのに、私は今さら「何かできたのでは」と考えています。
しかし、その「何か」とは何だったのか。もし本当に私にできることがあったのなら、その時点で気づいて行動していたはずです。それすらできなかった自分が、後悔する資格などあるのだろうか。
結局、私はただ「自分が何もできなかった」という事実を受け入れたくないだけなのではないか。
けれど、「何もできなかった」と簡単に割り切ってしまうこともできません。
次に同じような場面に遭遇したとき、私はどうすればいいのか。結局また何もできず、「気づいていたのに」と後悔することになるのではないか。
そんな思考が、延々と頭を巡り続けました。
そして今、この橋の前に立っている。
彼がここで最後にどんな風景を見て何を思ったのかを想像すると、橋の向こうへ進むことは、どうしてもできませんでした。まるで見えない何かが私を引き止めるように、体の奥から冷たいものがせり上がる感覚がありました。
それは、答えのない私に対しての逃げだったのかもしれません。
けれど、それでもいいのではないかとも思いました。
どれだけ考えても、過去を変えることはできません。どれだけ後悔しても、彼は戻らない。それでも、こうして彼が最後にいた場所に立ち、何かを感じ取ろうとすること自体には、意味があるのではないか——そう自分に言い聞かせながら、私は静かに踵を返し、歩き出しました。
人は誰しも、表に出せない孤独を抱えているのかもしれません。
どれだけ明るく振る舞っていても、どれだけ周囲から愛されていても、その胸の奥には、誰にも触れられない孤独があるものなのかもしれません。
浅田さんも、そうだったのでしょうか。
彼は、いつも笑顔でした。人を楽しませることに長け、場の空気を和ませることができる人でした。どこへ行っても人気者で、誰もが彼の存在を求めていました。しかし、その彼自身が、誰かに本当の孤独を打ち明けることはなかったのではないか。彼の「大丈夫」という言葉の裏側には、誰にも救いを求められない苦しみがあったのではないか。
そして、私はその孤独に気づくことができなかった。
目の前の楽しい時間に甘え、「この人が苦しんでいるはずがない」と、都合よく解釈してしまっていたのかもしれません。彼の沈黙や、ふとしたときの疲れた表情に、本当は気づいていたのに、深く踏み込むことをしなかったのではないか。
また誰かが、明るい笑顔の裏に孤独を抱え、沈んでいこうとしていたら、
今度こそ私は、何かできるのだろうか?
それとも、また「気づけなかった」と後悔するのだろうか?
答えはまだ見えません。
私がこれから先、どう生き、どう振る舞うのか、それはまだ分かりません。分からないまま、またいつか誰かを失い、そのたびに後悔を重ねるのかもしれない。
けれど、それでも。
気づける人間でだけはありたい。
誰かが孤独の淵に立っているとき、その存在を感じ取れる自分でありたい。もし、その人が何も語らず、助けを求めなかったとしても、それでも私は見て見ぬふりをしたくない。
それが何の役に立つのかも分からないまま、それでも。
せめて、見て見ぬふりをしない自分でだけはいたい。
冷たい夜風が体を包み込み、気づけば私は小さく震えていました。
この場所を離れなければならない、そう思いながら、私は静かに足をすすめました。
慣れない道を戻りながら、聞き慣れた声を思い出していました。
それは、あの店のカウンターで響いていた笑い声でした。私が店に訪れたとき、浅田さんが「若いの、今日は何を飲む?」と笑って聞いてくれた、あの声でした。振り返っても、そこには誰もいませんでした。
ただ、静かな夜の風だけが吹いていました。
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