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【人物月旦 #03】😁ある映像監督と映画のはなし

👇️本編要約
名前も思い出せない映像監督との短い会話が、人生に深い気づきをもたらしたエッセイです。普遍的な能力を身につける重要性を知り、迷いの中で具体的な行動を起こすきっかけとなります。また、映画『スターゲート』のメイキング映像からCG制作に可能性を感じ、映像の世界で新たな挑戦をスタート。映画業界に進む夢は叶わなかったものの、得たスキルと経験が人生の転機をもたらした物語です。

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人物月旦の第3回目はもはや記憶の中だけて名前も思い出せない方の話です。
人生には、一度きりの出会いでありながら、なぜか深く心に刻まれる瞬間があります。名前も顔もはっきりとは覚えていないけれど、その人が発した一言だけは、まるで心に刻まれた刻印のように今でも鮮明に残っています。今回お話しするのは、そんな偶然な出来事についてです。


深く心に刻まれること

その出会いがあったのは、私がまだ20代だった頃のことです。当時の私は若さに満ちあふれ、将来への漠然とした期待だけを頼りにしていました。「きっと自分は何者かになれる」という根拠のない自信を持ちながらも、その裏にある行動の曖昧さや具体性の欠如に気づくことはありませんでした。夢を語るだけで満足し、未来の自分を想像しては安心してしまう、そんな日々を過ごしていました。

そんな中で出会ったのが、その「いまとなっては名前も思い出せない映像監督」でした。その人と過ごした時間は、ほんの30分程度。それでも、その短い時間が私の人生に与えた影響は非常に大きなものでした。

会話の中で何気なく放たれたその人の一言は、若さの勢いだけで突き進もうとしていた私の胸に深く響きました。どこでどうしてその人と出会ったのか、当時、映画制作会社の面接を受けていたときに、どこかの制作会社だったということだけで、詳しい記憶は曖昧ですが、その言葉だけは今でもはっきりと覚えています。人生の転機というものは、こうした思いがけない出会いの中で訪れるのかもしれません。

その時初めて、自分の甘さや未熟さに気づかされ、自分を変えなければならないと強く意識しました。名前も顔も思い出せないけれど、その人がくれた言葉だけは、今も心に深く残っています。

それではその出会いの話を始める前に、この出会いが私にとってなぜそれほど大きな意味を持ったのかをお話しするため、少し背景をお伝えしたいと思います。それは、私がイギリスに住んでいた頃の話です。それでは本編をどうぞ。


サッチャー政権の影響が色濃く残る時代

私がイギリスに住んでいたのは、ちょうどマーガレット・サッチャー首相の長い政権が幕を閉じようとしていた頃でした。「鉄の女」と称された彼女は、国家再建を目指して数々の改革を実施しましたが、その末期には政策への不満が国中で高まり、大規模な抗議運動が頻発していました。

その中でも特に大きな波紋を呼んだのが、「人頭税(poll tax)」の導入です。この税制は所得に関係なく、すべての国民、外国人にも一律の課税を課すもので、裕福な人も貧しい人も同じ額を負担しなければなりませんでした。その結果、特に低所得者層への負担が大きくなり、社会全体の不満が一気に噴き出しました。

ロンドンの中心部では、連日のように過激なデモが行われていました。そしてある日、私も偶然その光景を目撃することになりました。ロンドンの目抜き通りを埋め尽くす群衆、響き渡るシュプレヒコールの声、そして警察との激しい衝突。割れたショーウィンドウや散乱する瓦礫が道を覆い尽くすその様子は、まるで映画のワンシーンを見ているかのような光景でした。

後になって、日本の家族にもこの混乱の余波が及んでいたことを知りました。ある日、実家に「弁護士」を名乗る人物から英語の電話がかかってきたそうです。「ロンドンで息子さんがデモに参加して逮捕されました。弁護が必要ならばサポートします」という内容だったそうです。もちろんそれは全くの嘘で、私がデモに参加したことなど一度もありませんでした。しかし、この出来事は当時のイギリスの混乱ぶりを象徴するものだったように思います。


駅売店でのアルバイト時給2ポンドの現実

そんな混乱した社会状況の中、私自身の生活も順調とは言えませんでした。最初は日本から持ってきた貯金を頼りにしていましたが、次第にその貯金も底を突き始め、アルバイトを探さざるを得ない状況になりました。しかし、当時のイギリスでは学生ビザでの就労が厳しく制限されており、アルバイトをすることには一定のリスクが伴っていました。

学校で仲の良かったトルコ人の友人が、「ピザハットで働いていたら警官に見つかって捕まった」という話をしてくれた時、そのリスクの現実味をひしひしと感じました。友人の話を聞いて、アルバイト探しに二の足を踏みましたが、それでも生活費がなくなる現実を前に、何かしなければという気持ちは変わりませんでした。

そんな中で別のインド人の友人から、「駅のホーム売店なら警察も来ないから安全だよ」とアルバイトを紹介されました。「とりあえず紹介するけど」という言葉に背中を押され、ついに駅の売店で働くことにしました。ルール違反であることは承知の上でしたが、選択肢が多い状況ではありませんでした。

売店での仕事は、飲み物やスナックを販売するシンプルなものでした。仕事内容自体は特に難しいことはありませんでしたが、時給はわずか2ポンド。当時のレートで日本円にすると約400円程度ですが、イギリスの物価を考えると実質的な価値はそれよりもさらに低いものでした。

特に印象的だったのは、売店で販売していた缶ジュースの値段が1ポンド(約200円)だったことです。つまり、1時間働いてやっと缶ジュース2本分の収入。自分の労働の価値がその程度だと思い知らされた瞬間は、なんとも言えない複雑な気持ちになったものです。「これが今の自分の現実か」と感じつつも、生活のためにはその仕事を続ける以外に選択肢はありませんでした。

深刻に思い詰めるというよりは、ただ淡々と受け入れざるを得ない日々。それでも、どこか割り切りながら「これも経験だ」と思い、なんとか毎日をこなしていたのを覚えています。


日本語教師の仕事紹介

そんな状況を見かねた学校の先生が、ある日私に別のアルバイトを紹介してくれました。それは、日本に駐在予定の金融機関や企業の家族に日本語を教える家庭教師の仕事でした。当時のイギリスには「能力ビザ(正式な名称は忘れました)」という特別な制度があり、外国人でも専門性の高い仕事に限り、合法的に働くことが認められていました。

先生から紹介された派遣会社がそのビザを手配してくれたおかげで、私は正式に日本語教師として学生の身分でも働くことができるようになりました。そして、その仕事の時給は15ポンド。駅の売店での仕事の8倍近い収入を得ることができ、一気に生活が安定したのを覚えています。

日本語教師としての最初の仕事は、正直なところ緊張の連続でした。これまで日本語を教えた経験など全くなかった私は、派遣会社で授業の進め方を教わりながら、手探りで始めました。それでも、教えるうちに少しずつ自信をつけていき、主に金融機関の駐在員家族の家を訪れて、大人だけでなく子どもにも日本語を教える日々がスタートしました。

日本語を教えるという行為は、単なるアルバイトにとどまりませんでした。それは自分自身の日本人としてのルーツを再発見するきっかけでもありました。異文化の中で「日本人」としての自分を改めて見つめ直す時間でもあり、この経験を通じて私の視野は広がっていったように思います。

日本語教師としての仕事のおかげで生活に余裕が生まれ、やがて私は学校のサークル活動に参加する時間や心の余裕も持つことができました。それはまた、新しい感性を開くきっかけとなりました。


映画製作サークル、異文化の視点が交差する場

日本語教師の仕事を始めたことで生活に少し余裕が生まれた私は、学校の近くに少し広い部屋を借りることができるようになりました。それまでの狭い部屋では窮屈さを感じる日々でしたが、新しい環境は精神的にも余裕を持てるようになりました。お金の心配が少なくなり、学校生活や日々の活動により積極的に取り組むことができるようになったのです。

そんな時に出会ったのが、映画製作のサークルでした。このサークルに興味を持った理由のひとつは、シナリオライターである義兄の影響でした。(義兄について詳しくは人物月旦#02

幼い頃から彼の姿を見てきた私は、自然と「自分も映画に触れてみたい」という気持ちが芽生えていました。その思いをきっかけに、このサークルに参加することを決めたのです。

サークルの活動は、私が想像していた以上に本格的なものでした。映画の鑑賞会だけでなく、実際に映画監督を招いてのワークショップや、映画製作に関する講義などが定期的に行われていました。そして何より刺激的だったのは、自分たちでショートフィルムを制作する実践的な活動でした。

サークルのメンバーは、イギリスをはじめ、インド、トルコ、フランスと、多様な国籍の学生たちで構成されていました。この多様性こそがサークルの大きな魅力でした。同じテーマを扱った作品でも、文化や価値観の違いが各メンバーの表現に色濃く反映されるのが面白く、互いに学ぶことがとても多かったのを覚えています。

今でも覚えているのは、ある講義の中で「リンゴ」を被写体にした映像を作った時のことです。テーマは単純に「リンゴを映像に収める」ことでしたが、出来上がった作品は驚くほど多様でした。正直感覚の違いであえて言葉にするとすれば、ある学生が作った映像は、リンゴの鮮やかな色彩を強調し、一方、ある学生は光と影を巧みに使い、重厚感のある表現に仕上げ、ある学生は、洗練されたアングルと繊細な構図を駆使し、リンゴの美しさを際立たせてたというように同じリンゴを扱った作品でこれほどまでに違う表現が生まれることに、当時私は驚きました。この体験を通じて、それを作る人の価値観や文化的背景を映し出すことを実感しました。

映画製作サークルでの活動は、私にとって単なる趣味の域を超えたものでした。映画という表現を通じて異文化理解が深まり、自分自身の感性や表現についても新たな発見がありました。特に、異なる文化を持つメンバーと共に作品を作り上げる過程では、文化の違いを超えた協力を学ぶことができました。

この経験は、後に私が映像の世界に興味を持つきっかけのひとつとなりました。単なるサークルの延長ではなく、自分の中で何かが変わり始めているのを感じたこの時期は、私の人生における重要な転機のひとつと言えるでしょう。


映画と進学について

イギリスでの生活が3年を過ぎた頃、私の中で映画への興味は一層深まっていました。シナリオライターである義兄から受けた影響、そして映画製作サークルでの実践的な経験を通じて、映画制作が自分を表現する手法であると実感するようになっていました。この気づきを受け、私は映画についてもっと本格的に学びたいと考えるようになりました。

そのために視野に入れたのは、イギリス国内で映画研究に定評のある大学でした。先生に聞くと「ウェストミンスター大学」や「ブリストル大学」などの名門校を教えてくれましたが、外国人として正規の形でこれらの大学に入学するには、いくつかの厳しい条件をクリアする必要がありました。

その一つが「Cambridge Examination」という英語検定試験です。この試験は、大学への入学を目指す外国人学生に求められるもので、難関大学はスコア6以上が条件とされていました。その後、クリアしてもさらに大学の統一試験で必要な成績を収めなければならなかったのです。

当時の私は、英語に対してある程度の自信を持っていました。今と違ってインターネットは影も形もななかった時代(米国のペンタゴンにはあったかも知れませんが)、生活の全てが英語で行われる状況ですから、授業はもちろん、テレビや映画、アルバイト、友人との会話に至るまで、日常的に何不自由なく英語を使っていたので「英語検定くらいなら大丈夫だろう」と軽く考えていました。

しかし、これは完全な過信でした。実際にCambridge Examinationを受けた結果は、思い描いていたものとかけ離れていました。試験では、高度な語彙や文法が問われる問題が次々に出題され、まるで未知の世界に飛び込んだかのようでした。普段の会話では気にしないような細かい文法の正確さも求められ、準備不足が露呈しました。

いま考えれば当たり前のことですが、私は日常生活で使う英語と、学問や試験で求められる英語の間には大きな隔たりがあることを痛感しました。たとえば日本語に置き換えて考えると、中学生でも日常会話で大人と意思疎通ができ、ニュースをある程度理解することは可能でしょう。しかし、いざ日本語検定のような試験で点数を取るとなると、それは全く別の課題になります。

日常会話では、多少の文法ミスがあっても相手には十分に伝わります。しかし、試験では正確で高度な知識が求められるため、曖昧さや感覚だけでは太刀打ちできません。この違いを、この試験を通じて身をもって思い知らされました。

試験の結果は私にとって大きな挫折となりました。それまでの3年間、「英語での生活には何も問題がない」と感じていた自信が、まるで砂上の楼閣のように崩れ去ったのです。日常生活では何とでもなっていた私が、学問や試験の場面では全く通用しない。その現実を突きつけられ、いかに自分が楽観的であまかったかを思い知らされました。

振り返れば、この挫折は私にとって必要な経験だったのかもしれません。若さゆえの過信と甘さが打ち砕かれることで、私はようやく現実を直視し、自分の足りない部分を見つめ直すきっかけを得たのです。しかし、当時の私は挫折の重みに圧倒され、次の一歩をどう踏み出すべきかさえ分からないままでした。

この試験をきっかけに、私は自分の選択肢を見直さざるを得なくなりました。それは、映画研究の夢を追い続けるべきか迷う時間でもあり、自分自身の立ち位置を改めて考え直す大切な期間となったのです。


挫折の果てに日本への帰国と迷いの時期

深い挫折を経験した私は、その後いくつかの選択肢を模索しましたが、最終的には帰国を決断しました。この選択は、私にとって非常に悩ましいものでした。イギリスでの生活は多くの思い出や経験に満ちており、特に映画という夢を諦める形になることが心残りでした。しかし、目の前の現実を考えると、これ以上そこに留まり続けることも難しい状況でした。この帰国という決断は、ある意味で現実と折り合いをつけるための選択だったのかもしれません。

帰国後、とにかく生活のために働かなければなりませんでした。イギリスで日本語教師として働いた経験があったため、それを活かして日本語学校でアルバイトを始めることにしました。この仕事自体にはある程度の慣れがあり、教えることそのものに対して抵抗はありませんでした。しかし、心のどこかでは「本当にこれでいいのだろうか」といった迷いが常にくすぶり続けていました。

映画研究の夢を持ちながらも、その夢が完全に閉ざされたわけではないという希望がありました。とはいえ、どのようにすればその夢に再び近づけるのか、あるいはそもそもそれが現実的に可能なのかといった具体的な答えは見つかりませんでした。


映画制作の道を模索するも…

日本語教師の仕事を続けながらも、私は映画制作の夢を諦めることはできませんでした。週末や空いた時間を使い、映画制作会社やプロダクションの面接を受けて回ることにしました。しかし、その道のりは予想以上に険しいものでした。確かに留学経験はありましたが、映画制作の実務経験は皆無。履歴書に記載できるような明確なスキルや成果もなかったため、面接官にとって私の存在は頼りないものに映ったのではないかと思います。

おそらく私の姿は、「やりたいことだけを語る若者」として映ったのでしょう。経験の裏付けがないまま情熱だけで語る私に対して、「続かないだろう」「現場で使いづらいのではないか」といった印象を持たれたのだと思います。実際、いくつもの面接で断られるたびに、自分がどこか空回りしていることを感じざるを得ませんでした。

何度も面接に落ちた私は、徐々に自分の足りなさを認識し始めましたが、それをどう補えば良いのかが分からないままでした。映画制作への夢を捨てきれない一方で、現実として目の前にある日本語教師の仕事をこなさなければならない。そうした状況に追われる日々の中で、自分が何をすべきなのか、どの方向へ進むべきなのかという問いに対して明確な答えを持つことができませんでした。

当時を振り返ると、表面的には日常が進んでいるように見えても、心の中ではずっと迷い続けていた時期だったように思います。夢と現実の間で揺れ動きながらも、どちらにも完全に背を向けることができないまま、ただ時が過ぎていきました。

この迷いの日々は、決して無駄ではなかったと思います。何度も夢に挑み、挫折を経験する中で、自分に何が足りないのか、そして現実の中でどう生きるべきかということを少しずつ考えるきっかけになりました。すぐには答えが見つからなくても、この時期の試行錯誤は、後の私の選択に大きな影響を与えることになります。

当時の私は、まだそのことに気づく余裕すらありませんでした。ただ、自分なりに模索し続ける日々の中で、少しずつ自分自身の考え方や価値観が変化していったことだけは確かでした。


映像監督と深い気づき、悩みの時間

迷いの中で映画制作の道を模索し続けていたある日、面接先で一人の映像監督と出会いました。その人は、初老で柔らかな物腰の男性でした。それまでの面接では冷たい態度や形式的な質問が多く、プレッシャーを感じる場面ばかりだったので、この監督の穏やかな雰囲気には少し救われるような気持ちになりました。威圧感がなく、私の話に耳を傾けてくれるその態度が、とても印象的だったのを覚えています。

面接が進む中で、その監督が語った言葉は今でも心に残っています。

「まず、入ってもらうとしても、アシスタントディレクター(AD)からのスタートになる。それでも、ずっと60歳までADでいる人もいるんだよ。それでもいいと思うか?」

その言葉に続いて、さらに現実的な助言をしてくれました。

「もしも、何か確かなステップを踏みたいと思うなら、まず技術を身につけなさい。カメラでもいい、照明でもいい、メイクでも何でもいいから。何か一つ。」

これまでの面接では聞いたことのない、非常に具体的で現実的なアドバイスでした。それまでの私には、情熱と希望だけがあり、実務のスキルや専門性について真剣に考えたことはありませんでした。この監督の言葉は、私の胸に深く突き刺さり、自分の甘さや未熟さをはっきりと認識させてくれるものでした。

その面接をきっかけに、私は監督の言葉の意味を繰り返し考えるようになりました。それは、単に映画制作の仕事への助言にとどまらず、人生全体に通じる指針のように思えました。これまで私は、情熱さえあれば何とかなると考え、具体的なスキル不足や自分の弱点を直視することを避けていたのです。しかし、「技術を持つことで道が開ける」という言葉を通じて、初めてその現実と向き合うことができました。

とはいえ、この気づきがすぐに具体的な行動や結果につながったわけではありませんでした。どんな技術を学ぶべきなのか、どこでその技術を身につけられるのか、さらには、それがどのように自分の未来につながるのか――考えれば考えるほど不確かな部分ばかりが浮かび上がり、悩みはむしろ深くなりました。

それでも、この時期の私は何かを見つけなければならないという焦りと、自分の無力さを痛感する日々を過ごしながら、それでも模索を続けていたのです。この面接での出会いは、その後の私にとって大きな転機となる考え方を芽生えさせるきっかけとなりました。


人生の転機を作った映画

迷いの中で進むべき方向を見失っていた頃、ある日何気なく観ていたテレビで、アメリカのSF映画『スターゲート』のメイキング映像に出会いました。この映画は、エジプトで発見された謎の環状遺物「スターゲイト」を巡る壮大な物語で、科学と冒険が融合したアクションストーリーです。映画そのものも興味深いものでしたが、特に私の心を動かしたのは、その制作過程を紹介したメイキング映像でした。

メイキングで取り上げられていたのは、砂漠の中にそびえるエジプトのピラミッドを舞台にしたシーンでした。ピラミッドの前には川が流れ、その川沿いの道を四輪駆動のジープが砂煙を巻き上げながら疾走していく。映像は、現実の風景そのものと見間違うほど精緻でリアルでした。しかし、驚いたのはその背景にある制作手法でした。

この映画では、当時としては非常に先進的な技術が用いられており、全編にわたるCG合成が多用されていました。メイキング映像で知ったのは、ピラミッドのシーンが実際のロケ地で撮影されたものではなく、すべてコンピュータで再現されたものだという事実です。これを知った瞬間、私は衝撃を受けました。「映画は、現地で撮影しなくても、テクノロジーの力を使えばこれほどのリアリティを生み出せるのか」と。

これまで私にとって映画制作とは、カメラや照明、役者が一体となって現場で作り上げるもの、いわば現実を記録する行為だという固定観念がありました。しかし、『スターゲート』のメイキング映像を通じて、映画がテクノロジーによってまったく新しい次元へと進化していることを知り、それまでの価値観が一変しました。このとき初めて、「映画の世界で自分にもできることがあるかもしれない」と直感的に感じたのです。

それまで映画制作に対する憧れを抱きながらも、具体的なスキルがないことへの不安を常に感じていました。しかし、このメイキング映像を通じて、CGという新しい分野に可能性を見出すことができました。「技術を持つことで道が開ける」という映像監督の言葉が、ここにきて私の中でようやく腑に落ちたのです。

CGという技術は、これまで感じていた「自分に何ができるのか」という漠然とした不安に対する答えのように思えました。この技術を学び、身につけることで、映画制作の世界に足を踏み入れる具体的な道が見えてくるのではないかと考えるようになったのです。迷いの中にいた私にとって、CG制作という新しいチャレンジは、未来を切り開くための確かな手がかりのように感じられました。


新たな道を目指して

『スターゲート』のメイキング映像に触発された私は、目標を定め、それに向けてがむしゃらに動き出しました。その目標とは、映画や放送用のCGを使った映像制作を学べる専門学校に入学することでした。振り返ると、この時期は本当にがむしゃらだったと思います。日本語教師の仕事を続けながら、少しでも収入を増やそうとあらゆるアルバイトを掛け持ちしました。生活は決して楽ではありませんでしたが、目標が明確だったことで乗り越えられたのだと思います。

やがて十分な貯金が貯まり、念願だったCGを使った映像制作を専門的に学べる学校に通えるようになりました。学校では、CGの基礎となるソフトウェア操作から始まり、映画のワンシーンを実際に再現するための技術まで、幅広いスキルを学びました。その学びは、これまでの人生では経験したことがないほど新鮮で、毎日が刺激の連続でした。自分の手で何かを作り上げる達成感を味わうたびに、未来への希望が少しずつ芽生えていったのを覚えています。


技術を選ぶことで見えた現実の道筋、映画制作ではない現在

『スターゲート』のメイキング映像との出会いは、間違いなく私の人生の転機でした。それまで映画制作に憧れながらも、夢だけを見て方向性を定められずにいた私に、初めて具体的な道筋を示してくれた出来事でした。CGを使った映像制作という新しい分野に挑戦することで、映画制作の世界における自分の可能性を信じられるようになり、行動を起こす勇気を得られたのです。

もしもあの日、何気なく観たテレビでこのメイキング映像に出会わなければ、私の人生は全く違う方向に進んでいたかもしれません。

時折考えることがあります。もし『スターゲート』に出会わず、勢いだけで映画制作の現場に飛び込んでいたら、どうなっていただろうか、と。おそらく、助監督(AD)というポジションからスタートしていたはずです。映画制作に対する情熱はありましたが、それを支える技術や経験が全くなかった当時の私には、厳しい現実が待っていたことでしょう

だからこそ、「CGを使った映像制作を学ぶ」という選択をしたことは、私にとって正しい決断だったと今でも思います。とある映像監督からの「何か技術を身につけろ」という助言、そして『スターゲート』という映画から受けた衝撃。この二つが結びついたことで、私はただ情熱に頼るのではなく、自分に不足しているものを補うための道を見つけることができました。

映像制作という技術を学び始めたあの日から、私の人生は少しずつ動き始めました。この経験は、挫折から立ち直り、再び夢を追いかけるための第一歩だったのです。そして、それは「目標を持つことの大切さ」を教えてくれる貴重な出来事でもありました。

この話を聞くと、映画業界であの時のCGをきっかけに活動しているのではないかと思うかもしれません。しかし、実際にはそうはなりませんでした。私は最終的に映画業界ではなく、現在では全く別の分野で働いています。しかし、あの時、行動を起こしたことで得た経験は、どんな分野でも応用できるものであり、私の人生において大きな価値を持つものでした。


「転機」としての気づき

これまでお話ししてきた私の道筋や、現在のに至るまでの経緯は、それ自体が一つの長い物語です。すべてを語り尽くすには時間が足りませんし、詳細はまた別の機会にお話ししたいと思います。ただ、ここで一つだけお伝えしたいのは、映画業界で直接活かすことがなかったとしても、『スターゲート』や映像監督との出会いのきっかけで得た経験は、私の人生において非常に大きな意味を持っているということです。

これらの出来事が私にとって大きな転機となった理由は、どのような環境でも通用する考え方や行動指針を教えてくれたからです。

私にとって、映画業界に進まなかったという結果自体は一つの選択肢に過ぎませんでした。しかし、当時の出来事がもたらした影響は、情熱や夢以上のものを含んでいました。それは、「現実的な条件の中で、どう目的を達成するかを考える」という姿勢です。この考え方は、どんな分野でも欠かせない考え方であり、人生において本質的なスキルそのものでした。

私はこのきっかけで得たその後の経験を通じて身につけることができました。

人生におけるどんな仕事でも、私が学んだ「イメージを可視化する力」は重要な役割を果たしました。映像制作を通じて身につけたスキルは、単に映像を作るための技術だけにとどまりません。それは、自分の頭の中で思い描いたものを現実の形に落とし込むための手法そのものを学ぶ機会でした。

例えば、新しいプロジェクトを立ち上げる際には、最初にその目的を明確にし、それを達成するために必要な手順を逆算して計画を立てます。そして、その過程では予算やスケジュール、リソースといった制約に対応しながら、最善の方法を探る必要があります。このプロセスは、映像制作の現場で求められるものと全く同じです。

こうした経験を通じて、私は「制約の中でどう目的を達成するか」を考える力を磨いていきました。それは、単なるクリエイティブな業務だけでなく、どんな仕事においても応用できる普遍的な考え方だったのです。

どんなに素晴らしいアイデアを持っていても、現実には時間や予算、人材といったさまざまな現実的制約があります。これらの制約を乗り越えなければ、どんな計画も実現することはできません。映像制作の経験を通じて私は、限られた条件の中で最適な結果を導き出すという姿勢を学びました。

クリエイティブな分野といえば自由な発想が求められるイメージがあるかもしれませんが、実際には、限られたリソースで最大の効果を生み出すことが重要です。「モデリングする」「映像化する」「編集を行う」「作品を完成させる」というプロセスは、常に現実の制約と向き合う作業でした。

この学びは、映画制作以外の分野でも、私の行動や考え方の基盤となり続けています。映像制作を離れた今でも、「目的を達成するために必要な条件を見極め、現実に落とし込む」という感覚は、私の中にしっかりと根付いているのです。

『スターゲート』をきっかけに始まった映像制作へのチャレンジは、結果として映画業界への直接的な道筋にはつながりませんでした。しかし、それを学んだことで得たスキルや考え方は、私の人生全体に影響を与えるものでした。それは、どんなに大きな夢であっても、それを実現するには現実の中で計画を立て、実行する力が必要だということを教えてくれたのです。

人生は選択の連続ですが、どの選択をしたとしても、そこでどう成長するかが重要です。この経験を通じて、それを強く実感しています。


「スターゲート」という映画への正直な気持ち

ここまで『スターゲート』という映画について随分と語ってきましたが、最後に少しだけ正直な気持ちをお伝えしなければなりません。この映画について話すと、まるで私がこの作品に深く感銘を受け、そのストーリーに心から魅了されているかのように聞こえるかもしれません。しかし、実際にはそうではありません。

確かに、『スターゲート』のメイキング映像が私の人生に与えた影響は非常に大きなものでした。それは間違いありません。ただ、映画そのものについて言えば、個人的には必ずしも「傑作」とは感じられませんでした。突飛な設定、やや強引な物語の展開、そして登場人物の描写がどこか浅い――これらは、私の好みからすると物足りないと感じる部分でした。

それでも、この映画が私にとって特別な意味を持つ作品であることに変わりはありません。なぜなら、『スターゲート』が私に与えたものは、そのストーリーやキャラクターといった映画の表層的な要素ではなく、その裏側に隠れた「技術の可能性」と「映像制作の新しい可能性」だからです。

この映画を通じて、私は映像技術の可能性に目を開かされました。そして、それがきっかけとなり、映画制作の世界での自分の役割を見つける道を切り開くことができました。もしもあのメイキング映像に出会っていなければ、私は映像制作を学ぶこともなく、ひいては「物事を現実化する思考」というスキルを得ることもなかったでしょう。

映画の価値は、その完成度や評価だけで決まるわけではありません。この作品が私に与えたように、何かのきっかけを作り、人生を動かす力を持つこともまた、映画の価値だと言えます。


作品の価値は観る人が決める

『スターゲート』のストーリーに心を奪われることはありませんでしたが、それでもこの映画が私の人生を変えたという事実は揺るぎないものです。そして、それこそが「作品の価値」というものの多様性を教えてくれました。この映画そのものを好きになれなかったとしても、その存在がきっかけとなり誰かの人生を大きく変えることがある。作品の価値というのは、観る人次第なのだとこの映画を通じて学んだのです。

振り返ると、『スターゲート』が私にとって忘れられない作品である理由は、物語ではなく、その周辺で起きた出来事にあります。もしも誰かに「人生を変えた映画は?」と聞かれたら、私は間違いなく『スターゲート』と答えるでしょう。そして、その答えにはきっと少しだけ苦笑いを添えることになると思います。

これが私とこの人物月旦で描きたかったエピソードの締めくくりです。切り取った事実だけは、何の変哲もない出来事ですか時に、それが連続的に意味のある形で並び、交錯するとそれが人生の転機を与えるきっかけになることもある――そんな事実を改めて感じるのです。

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