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【人物月旦 #17】😁上高地の気持ちの良い人たちのはなし

はじめに
このエッセイでは、登場人物のプライバシーを守るため仮名を使用しています。物語や感情は真実に基づいていますが、名前にとらわれず、本質や物語そのものを楽しんでいただけることを願っています。

👇️本編要約
本エッセイは、オーストラリアで出会ったイギリス人の友人との再会を目指し、イギリス留学を決意した著者が、上高地で10か月間働きながら資金を貯める奮闘を描いた感動的な実話です。過酷な雪かきや観光シーズンの多忙な業務の中で、仲間や地元の人々との温かい交流が描かれ、働くことの意義や人とのつながりの大切さを丁寧に綴りました。イギリスへの想いを胸に、友人に手紙を送り続けるエピソードや、空港での感動的な見送りシーンは、読者の心を深く揺さぶります。著者が経験した困難とそれを乗り越える力、人々の優しさに触れる物語は、読者に「夢を追いかける勇気」と「人とつながる喜び」を伝えている一遍です。

ある出張での出来事。長野への出張は滅多にないことだったので、少し特別な気持ちで向かいました。その日は仕事が予定より早く終わり、帰りの新幹線の切符を買おうとした時に、不意に心の奥から記憶の波が押し寄せました。松本で季節従業員として働いていた頃のことです。観光客で賑わう上高地のバスターミナルで切符を売り、山の爽やかな空気に包まれていた日々。その中でも、あの頃一番仲良くしてくれていたバス会社の新入社員の三人組。特に雁原さんの顔が真っ先に浮かびました。
「雁原さん、今はどうしているだろう?」
そう思うと懐かしさが込み上げ、松本経由で帰るのも悪くないな、と考えました。しかし、30年近くも前の話です。みんなが会社にいる可能性は低いし、連絡先もとうになくしてしまっています。それでも、なぜだか「電話してみよう」という気持ちが抑えられず、勇気を出してバス会社に電話をかけてみることにしました。
受付の方に恐る恐る自分の名前を告げ、「雁原さんはいらっしゃいますか?」と尋ねました。すると、「少々お待ちください」という返事が。まさか、と思いながら心臓が高鳴るのを感じていると、受話器越しに懐かしい声が聞こえてきました。

「どちら様ですか?」

どう説明したらいいのか、瞬間的に言葉が詰まりました。季節従業員は毎年20人ほど採用され、私が働いていた時から約30年で600人以上が入れ替わっているはずです。それに、私の名前はありふれたものですし、覚えているわけがないと思っていました。ですが、「イギリスに行った」という話を始めた瞬間、電話の向こうで声が弾んだように聞こえました。

「もしかして、ベルちゃんか?」

そういえば、当時私は「ベルちゃん」と呼ばれていました。その懐かしい呼び名に胸が熱くなり、「そうです!」と思わず答えました。言葉に詰まるどころか、感情があふれそうになるのを必死に抑えながら、「実は仕事で長野に来ていて、雁原さんをふと思い出しました。もしお時間があれば、今日ご一緒に夕飯でもどうですか?」と誘いました。
すると雁原さんは、「もちろん!」と即答してくれました。それだけでなく、「上島と桐松もまだ会社にいるから、声をかけておくよ。早く松本においで!」と言うではありませんか。その事実に驚きと喜びが込み上げ、私は即座に松本行きの切符を手に取りました。30年ぶりの再会を思い描きながら、列車に乗り込んだのです。


この前振りから入る今日の人物月旦は、松本のバス会社でイギリスへの目標を胸に働き続けた10か月間の出来事と、私の人生に輝きを与えてくれた人たちのはなしをお伝えしていきます。時計の針を当時まで巻き戻します。
それでは本編をどうぞ。


イギリスへ目標を追い上高地へ。切符売りの仕事を選んだ理由

オーストラリアから帰国した私は、オーストラリアで出会ったイギリス人の友人との約束に焦りを感じていました。一刻も早く渡航し、再会を約束した友人に会いにいきたい。しかし、そのための資金がありません。短期間で必要な額を稼ぎ出せる仕事を探し始めました。
当時はまだバブル時代で、高収入のアルバイトは日本中に溢れていました。特に工場系の仕事は日当1万円以上が当たり前で、場所によっては2万円を超えるところもありました。ただ、お金を貯めるために余計な支出は避けたかったので、生活費を極力抑えられる「住み込み」で、なおかつ短期間で稼げる職場を探しました。
最終的に候補に挙がったのは、日当18,000円の自動車部品工場と、日当15,000円の観光地・上高地でのバスの切符売りの仕事でした。部品工場の仕事は未経験でしたが、重労働であることは容易に想像がつきました。一方、バスの切符売りは、一見簡単そうに思えるのに高い報酬が提示されていたため、「切符を売るだけの仕事ではないだろう」とは思いつつも、具体的な仕事内容には興味が湧きました。
最終的にバスの切符売りを選んだ決め手は、最低就業期間の違いでした。部品工場は1年の契約でしたが、バスの切符売りは10カ月で済むという条件だったのです。この10カ月の短期集中なら、早くイギリスへ行く目標に近づけると判断しました。そして結果的に、この選択は間違いではなかったと今でも思います。あの時、この仕事を選んだからこそ、後に多くの素晴らしい出会いがあり、それが私の人生に大きな影響を与えてくれたのです。


休む暇はいらない?目標に向けた採用面接の日

履歴書や必要書類を提出した後、東京で行われる採用面接兼合同説明会の通知が届きました。
説明会当日。指定された会場に30分ほど早く到着すると、100人は収容できそうな広い会場はがらんとしていて、ちらほらと数人が座っているだけでした。「こんなに広いのに、本当に人が集まるのだろうか」と少し不安になりながら席に着きました。しかし、時間が近づくにつれ、次第に人が集まり始め、気づけば50人ほどが集まっていました。参加者は学生くらいの若い世代から、私の祖父くらいの年齢に見える方まで、年齢層が非常に幅広いのが印象的でした。女性の姿もちらほら見かけ、どことなく活気が漂い始めました。
説明会では、勤務地や業務内容、生活環境についての具体的な話がありました。勤務地は上高地へ向かう観光路線沿いにある3つのポイントに分かれており、以下の説明がされました。

  1. 新島々駅バスターミナル:上高地路線の入口となる駅での切符売り場。

  2. 沢渡駐車場:マイカー規制のため、バスに乗り換える駐車場がある中間地点での切符売り場。

  3. 上高地バスターミナル:上高地路線の終点に位置するターミナルでの切符売り場。

季節従業員の宿舎は新島々と上高地のバスターミナルに隣接しており、3食付きで1食あたり50円という驚きの安さでした。会社が補助しているための価格設定だそうで、生活費を抑えたい私にとっては理想的な環境でした。勤務時間は、勤務地によって異なるものの、朝7時スタートが基本で、沢渡の場合は移動があるため5時起きが必要とのこと。終業時間は、客足が途切れるまで続き、繁忙期には深夜0時を過ぎることもあるという話でした。休みは週1日、関係者同士でシフト調整をしながら決めるそうです。また、給与は現金払いというのも特徴的でした。
私は話を聞きながら、「へえ、そんなものか」と思う程度で、特に具体的なイメージは湧いていませんでした。上高地という場所自体に馴染みがなく、現地の状況を想像することができなかったからです。ただ、唯一気になったのは「休み」の話でした。1円でも多く稼ぎたいという思いが強かった私は、思わず手を挙げて質問しました。

「休まなくてもいいんでしょうか?」

その瞬間、会場中の視線が一斉に私に集まりました。50人近い人々が一斉にこちらを見る光景は、さすがに少し気まずかったです。説明をしていた担当者は一瞬驚いたような表情を見せてから、苦笑いを浮かべながらこう答えました。

「いや、別にそれは構わないけど…」

その返答には少し歯切れの悪さがありましたが、私の中では「それなら問題なし」と納得していました。説明会が終了すると、個別の面接が始まりました。私は順番が来ると個室に呼ばれ、面接官と向き合いました。何を話したか細かいことは覚えていませんが、確実に伝えたのは、「イギリス留学のためにお金を貯めたい」という強い思いです。
面接官は私の話を聞きながら、少し笑いながらこう言いました。
「だから、休みたくないなんて質問してたのね。なるほど。」
その言葉に少し恥ずかしさを感じつつも、目標を追いかけるためにはこの覚悟でいいんだと自分を励ましながら、面接を終えました。


心の弱さを乗り越えて貯金計画と目標への道

そして数日後、自宅に電話がかかってきました。採用の知らせでした。その瞬間、ようやくイギリスへの目標を実現するための一歩が具体的に動き出したと感じました。収入を確保する手段を得たことで、少し安心感もありましたが、同時に「どうやってこの期間を乗り切るか」という新たな課題に直面しました。
上高地では1食50円という破格の食事が用意されているので、食費についてはほとんど心配ありません。ただ、一つだけ不安がありました。それは自分の心の弱さです。お金が手元にあると、つい無駄遣いしてしまうかもしれない。そんな自分の性格をよく理解していた私は、「絶対にお金を貯める」という決意を形にするため、具体的な対策を考えました。
まず、郵便局で新たに2つの口座を開設しました。それぞれの通帳とキャッシュカードを手にした私は、次に兄を訪ねてこう頼みました。
「給料日になったら電話をするから、その電話を受けたらすぐに全額を引き出して、このもう一つの口座に移してほしい。」
兄は事情を聞き終えると、特に驚くこともなく、「わかった」と短く返事をしてくれました。その簡潔な返答に少し肩の力が抜けたのを覚えています。兄には申し訳ない気持ちもありましたが、これで自分の甘さを防ぎつつ、確実に貯金を続けられる仕組みを作ることができました。
こうして、常に手元にお金を残さない環境を整えた私は、上高地での仕事が始まる日を待ちながら、「どんなにきつくても絶対にこの10カ月を乗り切る」という決意を固めていきました。目標の実現に向けた準備が整い、気持ちも少しずつ高まっていく日々でした。


上高地への第一歩

いよいよ上高地に向かう日がやってきました。集合場所は新宿のバスターミナル。私たち季節従業員は、一般の乗客に混じって、バス会社が運行する高速バスに乗り込む形で現地へ向かうことになっていました。
バス停で受付をしていたのは、新入社員の雁原さんでした。「あ、季節従業員の方ですね。バスに乗ってください」と、丁寧に案内してくれたその姿は、とても初々しく、親しみやすい印象でした。バスの中には、説明会で見かけた人たちもちらほらいて、少し心強くもありました。
新宿を出発してから、新島々駅までの道のりは約4時間。バスの中は静かで、乗客たちは思い思いの時間を過ごしていました。私も遠ざかる東京の街並みを窓越しに眺めながら、自分のこれからの生活に思いを巡らせていました。

新島々駅に到着すると、そこは一面の雪景色。降り積もった雪はすでに雪かきされていて、小高く積まれた雪山があちらこちらに見えます。東京とはまるで別世界で、空気がひんやりと張り詰めていました。
到着後、雁原さんに案内されて新島々営業所へ向かいました。まず所長の加藤さんに挨拶をし、その後、明日の予定を説明されました。明日は上高地の終点バスターミナル周辺にある宿舎のオープン準備が仕事とのこと。積もった雪が入り口を塞ぎ、ドアが開かなくなっているため、皆で雪かきをして宿舎を使える状態にするのが最初の任務でした。「雪かきなんて楽しそうだ」と軽い気持ちで聞いていましたが、これがどれほど過酷な作業になるかを知るのは、もう少し先のことです。
その後、宿舎へと案内されました。営業所から道路を挟んだ向かいにある2階建てのプレハブの建物で、控えめに言っても見た目は「快適」とは言えません。しかし、中に入ると意外にも掃除が行き届いていて清潔感があり、広い廊下や畳敷きの部屋に「共同生活としては悪くないかも」と感じました。私は3人部屋で、同室になったのは40代くらいの小松さんと、20代の丸坊主で明るい性格の山口くん。小松さんはやや強面ですが話してみると気さくで、山口くんは笑顔が絶えず、すぐに打ち解けることができました。
夕食は営業所内にある小さな食堂で取りました。食堂には大きな炊飯器と味噌汁の鍋、そしてテーブルにはふりかけや調味料が並んでいます。おかずは仕出し弁当のような形で、前日までに食べる分を申請しておく仕組みです。初めての夕食では、小松さんや山口くんと自己紹介をしながら話が弾み、少し馴染み始めた気がしました。
夕食後、営業所に戻ると雁原さんが声をかけてきました。「明日の集合時間や雪かき道具の場所を説明しておきますね」と、彼は丁寧に明日の準備について教えてくれました。その親切さと面倒見の良さに感心したのを覚えています。その後、彼が差し入れてくれたビールを部屋で小松さんたちと軽く飲み、ようやく1日が終わりました。寝る準備をしようとストーブを切ると、部屋の気温は一気に下がり、凍えそうな寒さが襲ってきました。押し入れには布団や毛布がたくさんあったので、それを3人で引っ張り出し、何枚も重ねて「かまくら」のように作り上げた寝床に潜り込みました。それでも寒さは厳しく、全身を布団にくるまってようやく眠りにつきました。
こうして、上高地での新しい生活が静かに幕を開けました。この環境がどのような経験を私に与えてくれるのかは、この時点ではまだ想像もつきませんでした。


個性豊かな仲間たちと迎える新しい朝

翌朝、集合場所に行くと、昨日はいなかった5人ほどの新しい顔ぶれが加わっていました。その場で簡単な自己紹介が始まり、それぞれの個性的な背景が明らかになっていきます。
最初に自己紹介をしたのは、最年長で50歳くらいの波多さん。近所に住む農家のお父さんで、アルバイトで参加しているそうです。スポーツ刈りの小柄な体型が特徴的でした。柔らかな雰囲気で、「まあ、何かあったら頼ってくれ」といった感じの頼れる存在に見えました。
次に紹介されたのは、今井さんと高畑さんという30代の男性二人組。友人同士でこの仕事に参加したそうで、お互いに笑いながら軽い悪口を言い合う様子は、まるで漫才のように掛け合いをしていて、そのやり取りには嫌味な感じはまったくなく、むしろ信頼し合っているのが伝わってきました。北陸から来たという彼らは、とても気さくな雰囲気でした。
次は吉成さん。東北訛りが強く、話すテンポが少しゆっくりしている40代の男性で、その穏やかな語り口から、人柄の優しさがにじみ出ていました。見るからにほんわかした雰囲気で、周囲を和ませる力を持っているように感じました。
最後に自己紹介したのは、木ノ宮さんという20代後半の男性でした。このバス会社で季節従業員として働くのが気に入り、冬場は松本で車掌のアルバイトをしているというベテランでした。おしゃべり好きで、いろいろな知識を共有したがる人懐っこい性格で、自然と場のムードメーカーになっていました。
この個性豊かなメンバーの共通点は、全員が純粋で人懐っこいところです。どの人も話しやすく、少しでも油断するとすぐに話しかけてくるようなフレンドリーさがあり、「このメンバーなら楽しくやれそうだ」と感じました。

全員が揃ったところで、いよいよ雪かきの準備に取りかかります。営業所脇の納屋に保管されているスコップや雪かき用のシャベルなどを次々と取り出し、それらをトラックの荷台に積み込みました。経験者の木ノ宮さんは、道具が荷台で落ちないようにロープでしっかりと結わえるようアドバイスしていました。
木ノ宮さんのアドバイスで、みんなで協力して荷物をロープで固定しました。「そんなに揺れるのだろうか?」と思いつつも、木ノ宮さんが最後の確認でしっかりと結びつけます。その真剣な姿を見て、彼が頼れる存在であることがさらに伝わってきました。
道具を全て積み終え、準備が整うと、いよいよ出発しました


壮麗な自然と厳しい道。上高地へのアプローチ

梓川沿いを進みながら、バスは上高地を目指して山道を登っていきます。道中では、山間に点在するいくつかの集落を抜け、遠くには真っ白な雪をいただいた穂高連峰が雄大にそびえています。槍ヶ岳の尖った山頂もはっきりと見え、その壮大な景色に思わず息を呑みました。道が進むにつれて、勤務地の一つである沢渡の駐車場が見えてきましたが、今日はそこを素通りして、さらに奥にある上高地バスターミナルを目指します。
道は徐々に雪深くなり、道路こそ除雪されているものの、周囲には積もった雪がどっしりと景色を覆っています。白骨温泉の入口を過ぎ、坂巻温泉、中の湯といった要所を通り過ぎるたび、山奥にどんどん入り込んでいるのを実感しました。道幅は極端に狭く、ほぼバス一台分しか通れないような部分もあります。右手の窓からは山の壁面が間近に迫り、左手の窓からは梓川の渓谷が見えます。その下にはかなりの高さがあり、もしも運転を誤れば、真っ逆さまに谷底へ転落するような場所ばかりでした。このような過酷な道を大型バスで運転するのは、並大抵の技術ではできないことだと感心せずにはいられませんでした。
中の湯を過ぎると、道が二手に分かれるポイントに差し掛かりました。左折すれば安房峠方面ですが、私たちは直進し、「釜トンネル」の入口へと向かいます。この釜トンネルは、全長約1.3キロメートル、最大勾配10.9%という急な傾斜が特徴の難所です。当時は手掘りで作られたトンネルをコンクリートで固めた造りで、大型バスがぎりぎり通れるほどの幅しかありません。内部ですれ違うことなど到底不可能なため、トンネル両端には信号機が設置され、青信号にならなければ進入できない仕組みになっています。このトンネルの存在が、上高地でのマイカー規制が不可欠であることを改めて実感させてくれました。
信号が青になり、バスは慎重にトンネル内へ進入していきます。中に入ると、薄暗い空間にいくつかの電灯がぶら下がり、その光がでこぼこの壁面をぼんやりと照らしていました。手掘りの跡がそのまま残る不規則な壁は、どこか原始的で不安を感じさせるものがありました。トンネル内の高低差は予想以上で、車が斜めに傾いて進むのがはっきりとわかります。このとき、出発前に木ノ宮さんが「荷台の道具をしっかり結わないとダメだ」と言っていた理由がようやく理解できました。荷物が緩く固定されていたら、トンネル内の急勾配で暴れたり、最悪の場合、荷台から落ちてしまう可能性もあったのです。
無事に釜トンネルを抜けると、さらに雪深い山道が広がっていました。木々の間には、ところどころ動物の足跡が見え、自然の厳しさと美しさを感じました。道中、大正池や田代池を横目に通り過ぎ、やがて赤い三角屋根が特徴的な上高地帝国ホテルが見えてきました。丸太小屋風の外観が立派で、このような山奥にこんな豪華なホテルがあることに驚かされました。ホテルのエントランスでは、従業員が額に汗を浮かべながら雪かきをしている様子が見え、「自分もこれからこんな風に雪かきをするのか」と思いながら、その光景を眺めていました。
さらに進むと、道は広い駐車場に抜けました。ここが上高地バスターミナルです。駐車場の奥にある営業所の前でバスが止まり、私たちは目的地に到着しました。車を降りると、雪に覆われた静かな空間が広がり、東京では感じられない澄んだ冷たい空気が肌に刺さるようでした。


雪に埋もれた宿舎との初対面

車を降りると、除雪されているのは駐車場と河童橋へ続く山道くらいで、周囲360度が銀世界。空気は凛としていて、麓よりもさらに冷たく、肌に刺さるような冷気が漂っています。営業所に入ると、中央に大きな達磨ストーブが置かれていて、その暖かさにほっとしました。湯飲みで出してくれた熱いお茶を飲むと、体が内側からじんわり温まり、生き返るような気持ちになりました。
営業所で簡単な説明を受けた後、トラックから雪かきの道具を下ろし、目的地である宿舎へと向かいました。
案内されて到着した場所は、山の壁面がそびえる一帯。どこを見渡しても宿舎らしき建物は見当たらず、頭の中に「?」が次々と浮かびました。「宿舎ってどこですか?」と誰かが尋ねると、木ノ宮さんが笑いながら「ここだよ」と答え、山の壁面のように見える場所をシャベルで掘り始めたのです。
よく見ると、雪山に細い竿が何本か立っていて、木ノ宮さんはその付近を掘っていました。ようやく私たちは気付きました。目の前にある山の壁面だと思っていた場所は、実は宿舎が完全に雪で埋もれ、裏山と一体化してしまった状態だったのです。「この竿が目印で、ここが入口なんだよ」と木ノ宮さんが説明すると、全員が驚愕し、しばし言葉を失いました。
その時、雁原さんが「さあ、早く始めてください!」と声をかけ、私たちは我に返り、とにかく掘るしかないと作業を開始しました。

シャベルを手に、みんなで黙々と雪を掘り進めます。どれだけ掘っても果てしない雪の壁しか見えず、「これ、本当に正しい場所を掘っているんだろうか」と不安がよぎります。それでも掘り進めるうちに、ようやく赤い屋根のようなものが見えてきました。「これが入口だ!」と思いながらさらに掘ると、ベランダの手すりのような部分にたどり着きました。
「え、ベランダ?」と困惑していると、木ノ宮さんが「そろそろガラスが出てくるかもしれないから気をつけて掘ってね」と注意しました。慎重に掘り進めていくと、手にガラスの感触が伝わってきます。雪を手で払いのけると、そこには大きなガラスサッシが現れました。
「なんで入口にガラスサッシ?」と思っていると、木ノ宮さんが「ここは2階のベランダなんだよ」と教えてくれました。一階部分が完全に雪で埋まっているため、2階のベランダから入るしかなかったのです。特殊な工具でサッシを外して中に入ると、そこは木目調の清潔感ある内装で、山小屋風のデザインが施された宿舎でした。建築されてからまだ4年ほどしか経っていないらしく、新築同然の状態でした。ただ、水道管が凍結しているようで水は使えません。外観はまるで巨大なかまくらに潜り込むような不思議な光景でした。

ひとまず2階からの入口を開けることに成功し、昼食をとるために宿舎の中にある食堂へ移動しました。弁当を広げ、持参したポットのお茶を飲みながら、全員がようやく一息つくことができました。
昼食後は、本来の玄関へと掘り進む作業に取り掛かりました。最初に2階から掘り始めたのは、上から雪が崩れ落ちてくる危険を避けるためだったそうです。午後もひたすらシャベルを動かし続け、夕方近くになってようやく玄関のドアにたどり着くことができました。
玄関を掘り当てたところで、宿舎の周囲に積もった雪が再び埋め戻されないよう、掘り起こした部分を大きなブルーシートで覆いました。この作業を終えた頃には日が傾き、ようやく下山することになりました。
新島々に戻る頃には、全身が筋肉痛に襲われていました。全員が疲れ果てた様子で、夕食時も会話はほとんどなく、食べ終わるとすぐに解散しました。「これがまだ初日か…」と心の中で呟きながら、果たして翌日も体力が持つのか不安を感じつつ、眠りにつきました。


雪かき作業の一区切りと新しい生活の始まり

その後も1週間ほど雪かき作業に明け暮れ、ついに上高地宿舎の全体が見えるところまで除雪が完了しました。宿舎の全貌が現れた時、達成感とともに「こんなに雪に埋もれていたのか」と改めて驚きを感じました。しかし、作業はまだ終わりではありません。宿舎周辺の通路や敷地全体の除雪作業が残っているため、この日からは宿舎に寝泊まりしながら、急ピッチで作業を進めることとなりました。

その日、宿舎で食事を担当する老夫婦がやってきました。この夫婦は毎年この時期にバス会社から派遣され、ここで暮らしながら季節従業員や関係者たちの食事や宿舎の掃除を担当しているとのことでした。どちらも優しい笑顔が印象的で、中の良さが伝わる穏やかなご夫婦でした。
その日の夕食は、久しぶりの手作りの温かい料理でした。湯気の立つ味噌汁や煮物、ふっくら炊きたてのご飯が並び、冷え切った体と心をじんわりと癒してくれるような美味しさでした。みんなの顔にも自然と笑顔が浮かび、これからの作業に向けて気持ちが少し楽になった気がしました。

夕食後、嬉しい出来事がもう一つありました。近くの上高地温泉ホテルのフロントの方が宿舎を訪ねてきて、「ホテルのオープン準備が整ったので、ぜひお客さんが来る前に温泉に入りに来てください」とご厚意で招待してくださったのです。
上高地温泉ホテルは一流の宿泊施設で、普段なら私のような身分では泊まることなど到底できない場所です。その温泉に入れるというだけでも大きな贅沢でした。みんなの間にも歓喜の声が上がり、早速、準備を整えて温泉に向かうことになりました。
宿舎を出ると冷たい風が吹いていましたが、しっかりと防寒対策をしてホテルへ向かいました。ホテルに到着すると、広々としたエントランスでスタッフが温かく迎えてくれ、すぐに温泉へ案内してくれました。
温泉は、穂高連峰を一望できる絶景の温泉でした。雪景色と雄大な山々を眺めながら湯船に浸かると、これまでの疲れがスッと溶けていくような感覚になりました。湯気の中に広がる静寂と、体を包み込む温かさ。まるで時間が止まったかのように心地よいひとときでした。
みんなも思い思いにリラックスし、温泉の素晴らしさを口々に語り合っていました。冷えた体が芯から温まり、張り詰めていた筋肉がほぐれるのを感じながら、「ここまで頑張ってきてよかったな」と心から思える瞬間でした。

温泉で十分に温まった私たちは、体が冷えないように注意しながら宿舎に戻りました。その日は心地よい疲労感と、温泉の癒し効果のおかげで、布団に入るとすぐに深い眠りに落ちました。久しぶりに体も心も安らかに休まり、翌日に向けてしっかりと英気を養うことができました。こうして、新しい生活が本格的に動き出しました。雪かき作業の過酷さを実感しつつも、仲間たちや周囲の温かさに支えられ、次第にこの環境に慣れていく自分がいました。

厳しい作業が続く毎日でしたが、夜になると宿舎の食堂に集まり、みんなで夕食を囲む時間が私たちの癒しのひとときでした。自然と会話が弾み、その日その日でお互いの事情や目標を少しずつ知るようになりました。
波多さんは農家を営みながら家族に畑を任せて収入を増やそうとしていたり、小松さんは実家の酒屋を改築するための資金を貯めていたり、山口くんは三宅島への移住を考え、そこで居酒屋を開く夢を持っていたりと、季節従業員として参加するみんなそれぞれがさまざまな目標を持っていました。
そんな中で、私もオーストラリアで出会ったイギリス人の友人との再会を目指していることを打ち明けました。イギリスで再会する約束をしていて、一刻も早く渡航したいという気持ちが、話すうちに自然と熱のこもった言葉になっていたと思います。最初はみんな驚いたようでしたが、次第にその純粋さを面白がるようになり、「ずいぶん真剣なんだな」「若いっていいね」と冗談混じりに励ましてくれました。その言葉に少し恥ずかしさも感じましたが、共感してもらえたことが本当に嬉しく、心が軽くなったのを覚えています。

田舎の狭いコミュニティでは情報が驚くほど早く広まります。気づけば、私の話は直接話したことのないバス会社の社員たちにも伝わり、新島々駅のスタッフや上高地営業所の人たちまでが「頑張ってイギリス行けよ」と声をかけてくれるようになっていました。ある日、隣町の郵便局に貯金をしに行こうとしていると、新島々営業所の加藤所長が「電車代がもったいないだろ。後で車で送ってやるよ」と声をかけてくれたこともありました。
上高地に来てからほぼ毎週イギリスに手紙を書くことが習慣になっていたのですが、その話もどこからか知られていて、「これ、手紙を書くときに使いな」と便箋をくれる人や、切手を差し入れてくれる人もいました。
こうした優しさに触れるたびに、感謝の気持ちが込み上げてきたことを今でも覚えています。それほど裕福ではない環境で働く人たちが、自分のことで精一杯であるはずなのに、そんな中で私のことを気にかけて応援してくれる。その気持ちが、何よりも私の力になっていきました。
いつの間にか、みんなから「ベルちゃん」というあだ名で呼ばれるようになり、親しみを持って接してくれるその声が、私の心をさらに温めてくれました。


上高地開山と沢渡での初日

周囲の雪かき作業が完了し、沢渡駐車場の仮設切符売り場や周辺の準備も整いました。そしていよいよ、上高地の開山を迎える日がやってきました。冬の名残を感じる寒さの中で、私たち季節従業員も新たな仕事に向けて気持ちを引き締めます。

この日の朝は、新島々の宿舎を早朝5時に出発しました。沢渡駐車場での業務はほぼ一日中外で過ごすため、防寒対策は万全にしなければなりません。何枚も重ね着した服の上に制服の防寒ジャンバーを羽織り、軍手2重にしっかりと冷え込みに備えました。
沢渡に到着すると、まず最初に行うのは暖を取る準備でした。駐車場には設置されたドラム缶があり、その中に薪をくべて火を起こします。立ち上る煙と炎が、冷え切った指先や顔を少しずつ温めてくれました。沢渡駐車場は、上、中、石見平と3か所に分かれており、その周辺には集落や旅館、食事処が点在しています。
観光客はこの駐車場で車を停め、観光路線バスに乗り換えて上高地バスターミナルまで向かいます。繁忙期には通常のバスだけでは足りず、ピストン輸送のために10台ほどのバスがここで待機することになります。
今日はその初日。朝の澄んだ空気の中、少しずつ観光客の姿が見え始めました。
いよいよ最初のお客さんがやってきました。駐車場に車を停めると、私たちの切符売り場に向かって歩いてきます。「おはようございます!」と声をかけながら切符を手渡した瞬間、それまでの準備の日々を思い出し、目の前のこの一枚の切符がどれほどの重みを持つものかを実感しました。

昼食の時間になると、私たちは沢渡駐車場近くにある会社が契約している食事処へ、交代で食事を取りに行きます。その食事処では、地元の温かい家庭料理が用意されていました。味噌汁や煮物、焼き魚といった素朴なメニューに、冷えた体がほっと癒されます。そして、食事を終えて出る際には、必ずといっていいほどおかみさんや従業員の方が声をかけてくれました。「いつもご苦労さんね」「寒い中、大変だね」と言いながら、飴やお菓子を手渡してくれるその気遣いが、とても嬉しく感じました。
午後になると、食事処が少し落ち着く時間帯になるため、おかみさんや従業員の方が切符売り場まで足を運んでくれることもありました。「寒いのに頑張ってるね」と声をかけながら、アルミホイルで包んだサツマイモを人数分持ってきてくれました。それをドラム缶の火で焼き、ほくほくの焼き芋をみんなで分け合って食べるひとときは、寒さを忘れさせるほどの贅沢な時間でした。湯気の立つ芋を頬張りながら、「こういうのが一番のごちそうだよな」と笑い合ったその光景は、今でも心に残っています。
沢渡駐車場での仕事が始まると、観光客とのやり取りだけでなく、地元の人々の優しさや気遣いに触れる機会が増えていきました。その温かさは、寒さと疲れでこわばる私たちの心をほぐしてくれるものでした。


上高地、夏のピークの試練

夏本番を迎え、年間100万人以上が訪れる上高地は、まさに観光のピークシーズンに突入していました。毎日押し寄せる観光客の波に、沢渡からのピストンバスは常にフル稼働。バスに乗るために駐車場待ちの車が長い列を作り、朝から晩まで途切れることはありませんでした。

それでも夕方になれば少しは落ち着くだろうと思っていましたが、この日は違いました。日が傾いても列は短くなるどころか、ますます長くなるばかりです。雁原さんたちは無線で上高地の状況を確認しながら、次の対応を相談していました。しばらくして、雁原さんが私に声をかけてきました。

「ベルちゃん、悪いんだけど、上高地のバスターミナルが大変なことになりそうだから応援に行ってくれないか?」

確かに、この沢渡からこれだけの人数を送り込んでいるのだから、バスターミナルが混雑するのは当然でした。私は急いで来たピストンバスに乗り込み、上高地へ向かいました。
バスが上高地バスターミナルに到着すると、そこは想像以上の光景が広がっていました。人、人、人。バス乗り場には長蛇の列ができ、営業所の前は人で埋め尽くされています。到着するバスからは次々と満員の乗客が降りてきますが、そのすぐ横では帰りのバスを待つ人々の列がさらに伸びていきます。
私はすぐに列の最後尾に向かい、誘導作業を開始しました。しかし列はどんどん伸び、気づけば河童橋まで続いていました。その様子を見て「ここまで混むのか」と圧倒されるばかりでした。
暗くなっても人の流れは途切れることなく、待つ人たちの疲れや苛立ちもピークに達していました。遅れて沢渡から応援のメンバーが到着し、私たちは全員でそれぞれの持ち場につき、クレーム対応や列の誘導を分担することにしました。

この大混雑の中でも、ベテランスタッフたちはさすがでした。待ち時間のストレスを少しでも和らげようと、紙コップでお茶を配ったり、上高地の魅力について面白い話をして場を和ませたりと、あの手この手で状況を乗り切ろうとしていました。その対応に私は感心しながらも、見よう見まねで必死に動き、謝罪を繰り返すことでなんとか乗り切ろうとしていました。
「申し訳ありません、お待たせしております」「もう少しだけお待ちください」と繰り返しながら、時折笑顔を見せて少しでも場を和らげる努力を続けました。慣れない状況での対応は大変でしたが、周りのスタッフのフォローや観光客の中には「大変ですね」と声をかけてくれる人もいて、それに救われる思いでした。
夜中の12時を過ぎても列は消えず、最後のお客さんを乗せる最終バスが出発したのは深夜1時でした。ようやくすべての作業を終え、長い一日が幕を閉じました。あまりの忙しさに、体力だけでなく精神的にも消耗しましたが、何とか全員で乗り越えられたことにほっとしました。
「これだけ混むのは久しぶりだな」というベテランスタッフの言葉に、今日の混雑が特別だったのだと改めて感じました。そして「明日も同じくらいの混雑が予想される」と告げられ、それぞれ疲れた体を引きずりながら解散しました。


車掌としての体験と思いがけない温かさ

切符売りが主な仕事でしたが、時にはバスの車掌を任されることもありました。特に印象深いのは、雪の壁がそびえ立つ道を通って乗鞍高原まで向かうバスや、安房峠を越えて岐阜の平湯温泉バスターミナルまで行くバスでの経験です。
乗鞍高原行きのバスは、道の両側にバスの天井をはるかに超える雪の壁が続き、その景観には毎回息をのむほど感動しました。一方で、安房峠越えはその美しさ以上に緊張感がありました。当時の安房峠は現在のようなトンネルがなく、旧道を通るしかありませんでした。細い道が崖のすぐ上を通り、カーブでは一発で曲がり切れないこともしばしば。観光シーズンには大渋滞が発生し、通常1時間の道のりが5~6時間かかることもあると聞いていました。
安房峠の路線を運転できるドライバーは限られており、その中でもベテランの四戸さんは特に有名でした。私が初めて四戸さんとシフトを組んだとき、正直気が重かったのを覚えています。四戸さんは厳しい性格で、もたもたしていると怒鳴られることも多かったからです。
安房峠越えでは車掌も重要な役割を担います。切り返しが必要な場所では、バスから降りて前後の状況を確認し、ドライバーに正確な位置を大きな声で伝える必要があります。そのたびに四戸さんから飛んでくるのは容赦ない言葉。
「そんな小さな声で指示されたら、谷底に落ちちまうぞ!」
私は何度も「すみません」と謝りながら、声を張り上げて指示を出しました。緊張で手が震えながらも、懸命にサポートした記憶があります。

なんとか平湯バスターミナルに到着し、折り返しのバスが出るまでの待機時間が2時間ほどありました。会社が契約をしている食堂で食事をしていると、四戸さんが近づいてきて、「また怒られるのかな」と身構えました。しかし彼は意外な言葉を口にしました。
「まだ時間があるから温泉に行くぞ。」
バスターミナルには大きな温泉が併設されており、茶褐色のお湯が特徴の温泉で温泉好きにはたまらない施設です。私は恐る恐る「わかりました」と答えると、「嫌なのか?」と聞かれ、「とんでもないです。ぜひご一緒させてください」と慌てて取り繕いました。
温泉に向かうと、四戸さんが入浴料を払おうとしました。私は「自分で払います」と断りましたが、四戸さんはこう言いました。
「お前、イギリスに好きな人がいて、その子に会うためにお金を貯めてるらしいな。そんな奴から金は取れない。」
思いがけない言葉に驚きました。私の事情が四戸さんにまで知られているとは思いませんでしたし、それ以上に四戸さんが興味のある話題ではないと思っていました。温泉では、彼が背中まで流してくれ、「頑張れよ」と励ましの言葉をかけてくれました。最後には、平手で背中を叩かれ、痛いと思いつつも、その不器用な温かさが心に深く染みました。
新島々に戻った際、四戸さんは小さくこう言いました。
「助かったよ。最後はずいぶん切り返しの指示がうまくなったな。」
厳しいだけではない四戸さんの一言に、嬉しさが込み上げました。最初は避けたいと思っていた彼との仕事でしたが、この経験を通して、四戸さん厳しさの裏にある人の優しさを知った、特別な思い出として私の心に残り続けています。


秋の紅葉シーズンと上高地での温かい日々

秋が深まり、上高地は紅葉のピークを迎えました。鮮やかな赤や黄色に染まる山々の美しさとは裏腹に、観光地としての繁忙期も相変わらず続きます。目の回るような忙しさの中、長時間の労働や厳しい仕事の連続で体力的にも精神的にも大変でしたが、それでも乗り越えられたのは、周りの人たちの温かさのおかげでした。
地元の人たちや関係者からの差し入れや、日々かけられる励ましの言葉が、何よりの支えになっていました。「大変だね」「頑張ってるね」というひと言や、手渡されるちょっとしたお菓子や飲み物が心をじんわりと温めてくれました。
上高地の宿舎では、季節ならではの秋の味覚を楽しむ機会もありました。関係者が梓川で釣り上げたイワナや、山から採ってきたキノコや山菜が食卓に並ぶことも珍しくありません。時にはマツタケが登場することもあり、みんなでその香りを堪能しながら食べる夕食は、この土地で働く特別な喜びでもありました。自然の恵みを感じるひとときは、日々の忙しさを忘れさせてくれる、ささやかな贅沢でした。

働き始めてから順調に貯金がたまっていき、時々兄に電話をして通帳の残高を聞くのが小さな楽しみでした。「あとこれだけで目標に届く」と思うたびに、イギリスへの一歩を確実に進めている実感が湧き、さらに頑張ろうという気持ちになりました。
イギリスへの手紙も、毎週欠かさずに送り続けていました。友人からの返信は頻繁ではありませんでしたが、たまに新島々の営業所に届くエアメールは、会社中の話題になりました。それを受け取ったスタッフが嬉しそうな表情で駆け寄り、「ベルちゃん!手紙来たよ!」と届けてくれる姿を見るたび、心が温かくなりました。

手紙を開けて読むときには、周囲にいたスタッフたちがすぐに集まってきました。彼らは「なんて書いてあるんだ?」としつこく聞いてきて、私は少し恥ずかしさを感じながらも、内容を説明せざるを得ませんでした。それでも、みんなが自分のことを気にかけてくれているのだと感じると、不思議と心が満たされました。
忙しさの中でも、こうした日々の温かさが私を支え、イギリスでの再会という目標を追い続ける力を与えてくれました。紅葉の美しい上高地での生活は、ただ厳しいだけでなく、人々の優しさや自然の恵みに包まれた、かけがえのない時間となっていました。


上高地閉山と感謝のパーティー

秋も終盤に差し掛かり、冷たく澄んだ空気が上高地を包む頃、閉山のムードが徐々に漂い始めました。紅葉も見頃を過ぎ、冬の訪れを感じさせる静けさが辺りに広がっていきます。そんな中、閉山を迎える上高地で毎年恒例となっている「上高地帝国ホテルの閉山パーティー」が開かれることになりました。
このパーティーは、上高地で働いてきた関係者全員を招待し、帝国ホテルのロビーやレストランで料理を振る舞い、一年の労をねぎらうという粋な計らいのイベントです。上高地帝国ホテルといえば、一流ホテルとして知られ、宿泊するにも予約が取れないほどの人気を誇る特別な場所。その帝国ホテルでのパーティーとあって、私たちは胸を弾ませながら当日を迎えました。
会場には、これまで顔なじみとなった人たちが集まっていました。帝国ホテルのスタッフをはじめ、バス関係者、周辺ホテルの従業員や店舗のスタッフなど、まさに上高地を支えてきた人々が一堂に会した盛大な場でした。
テーブルには、帝国ホテルならではの豪華で洗練された料理が並び、見たこともないような美しい盛り付けの品々に目を奪われました。山でのシンプルな食事に慣れていた私にとって、これほど華やかな料理を目の前にするのは、非日常そのものでした。
パーティーが進むにつれ、帝国ホテルのスタッフや関係者のスピーチが続き、お酒も入り場は次第に和やかで盛り上がった雰囲気に包まれました。みんなが笑顔で乾杯し合い、これまでの苦労をねぎらい合う姿に、上高地の人々の絆の深さを改めて感じました。

そんな中、誰かがふと私の話を持ち出しました。「これからイギリスに向かう若者がいる」という一言をきっかけに、会場の視線が私に集まりました。そして、自然とスピーチを求められる流れに。「え、私が?」と驚きながらも断れる雰囲気ではなく、緊張しながらマイクの前に立つことになりました。
スピーチでは、この一年間、どれだけこの土地の人々に支えられてきたかを素直に語りました。初めて経験する厳しい仕事や長い労働時間に戸惑いもありましたが、それを忘れさせてくれるほどの温かい出会いと優しさに感謝していることを伝えました。「皆さんのことは絶対に忘れません。イギリスに行っても、この経験を胸に頑張ります」と言いながら、気づけば感極まって涙が溢れてしまいました。
会場からは温かい拍手が沸き起こり、私はその場の優しさに包まれながらマイクを置きました。パーティーの華やかな中に、この土地での経験を振り返り感謝を伝えられたことが、何よりの思い出となりました。
パーティーを終え、私たちは会場を後にしました。振り返ると、厳しくも温かな日々を過ごした上高地での時間が、これからの自分の糧になることを実感しました。そして、この土地の人々が見守ってくれるという気持ちを胸に、次なる一歩を踏み出そうと心に決めました。


東京への帰還と感動の見送り

上高地の閉山を迎え、いよいよ東京に戻る日がやってきました。この数か月間お世話になった関係各所に感謝の挨拶をし、心を込めて手紙を書いて渡しました。それぞれの言葉に温かく送り出されるたびに、この地で過ごした日々の重みを実感し、別れの寂しさが胸を締めつけました。
別れの日、新島々のバスターミナルで見送ってくれるみんなの姿は、今でも鮮明に心に焼き付いています。笑顔で手を振る彼らの姿を見ながらバスに乗り込む瞬間、上高地で出会った全ての人への感謝が胸に込み上げ、何度も振り返らずにはいられませんでした。

上高地で特に仲良くなった山口くんとは、その後も連絡を取り合っていました。私がイギリスに旅立つ日が近づくと、彼は「成田まで送りに行くよ」と言ってくれました。その優しさが何より心強く、当日の再開を楽しみにしていました。
そして、イギリスへの出発当日。山口くんとは成田空港で待ち合わせをしていました。時間通りに山口くんと合流したのですが、その瞬間、思いがけない光景が広がりました。
山口くんが合図をすると、見覚えのある顔が次々と現れました。なんと、上高地でお世話になった人々が、20人近くも成田まで見送りに来てくれていたのです。季節従業員の仲間たち、雁原さんをはじめとするバス会社のスタッフ、本当に多くの人たちが集まってくれていました。
確かに、私は感謝の手紙をみんなに書いて渡していましたが、それでも、わざわざ成田まで来てくれるなんて夢にも思いませんでした。その光景を目の当たりにした瞬間、言葉が出ず、ただ驚きと感動で胸がいっぱいになりました。涙がこみ上げる私に、山口くんが「頑張って行ってきてね」と笑顔で声をかけてくれました。
見送りに来てくれたみんなからも、口々にねぎらいと応援の言葉をもらいました。「気をつけてね」「夢を叶えてね」といった言葉が、私の背中を優しく押してくれるようでした。この場を立ち去ることが、これほどつらいと感じたのは初めてでした。
後ろ髪を引かれる思いで、成田空港の搭乗ゲートへと向かいました。振り返ると、みんながずっと手を振ってくれていて、その姿が見えなくなるまで私は何度も振り返りました。
心に刻まれた彼らの笑顔と温かい言葉を胸に、私は新たな一歩を踏み出しました。この日、上高地での時間が、ただの仕事ではなく、私の人生を形作るかけがえのない思い出となったことを深く実感したのです。

上高地で過ごした10か月間は、私にとって単なる労働の経験を超えた、大切な人生の一部となりました。雪深い初春から始まり、季節の観光ピーク、そして閉山を迎えるまでの間、この土地で出会った人々、厳しい環境、そして温かい人情が、私の心に深く刻まれています。
初めての環境での慣れない仕事、体力的にも精神的にも厳しい日々。それでも、目標を持ちながら働く仲間たちや、地元の人々の支えによって、苦しさを乗り越えることができました。差し入れや励ましの言葉、さりげない気遣い。どれもが日々の糧となり、目標に向かうエネルギーを与えてくれました。
上高地で出会った全ての人々へ、心からの感謝を込めて。あなたたちのおかげで、あの時、私は次の一歩を踏み出すことができました。本当にありがとうございました。

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