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【人物月旦 #04】😁友人カップルのはなし

はじめに
このエッセイでは、登場人物のプライバシーを守るため仮名を使用しています。物語や感情は真実に基づいていますが、名前にとらわれず、本質や物語そのものを楽しんでいただけることを願っています。

👇️本編要約
オーストラリアでの若き日の無謀な挑戦を振り返り、出会った友人カップルから学んだ「成熟」と「人を助ける覚悟」を描いたエッセイです。未熟さゆえの失敗や試練を通して、彼らが見せた優しさや行動が、心境に大きな影響を与えます。異国の地での成長と友情、そして帰国への支えとなった心温まるエピソードが詰まった物語です。

P/S:いつも温かい「スキ」をありがとうございます。気に入っていただけたら「スキ❤ボタン」で執筆を応援してもらえると心強いです。これからもよろしくお願いします!


今日お話しする人物月旦4回目は、私が20歳になる少し前にオーストラリアで出会った、とても仲の良かった友人カップルについての物語です。当時の私は、未来のことなんてほとんど考えず、その日その日が楽しければそれでよかった、いわゆる「刹那的」な生き方をしていました。自分の世界は狭く、自分のことだけで精一杯。明日何をするか、それ以上先のことなんて想像もできなかった、そんな時代です。

その友人カップルは、私よりもたった1歳年上の2人でした。ほんの少しだけ先を生きているだけのはずなのに、彼らの行動や考え方には、私には到底及ばない成熟さがありました。1歳しか違わないはずなのに、どうしてこんなにも大人なんだろう? 彼らは、いつも自分たちのことよりも周りを優先して動くことができる人たちでした。その姿は、当時の私には、自分の未熟さを嫌でも突きつけられるようでした。

そんな2人から、ある時、思いがけない贈り物をもらったのです。私はその時、心から感謝の気持ちを抱きました。でも、それをどう伝えればいいのかがわからなかった。ただ「ありがとう」と言葉だけで済ませてしまった自分が、後から嫌になりました。その感謝をどれほど形にすれば良かったのか、どんな言葉が適切だったのか、今でも思い出すたびに考えます。

このエッセイでは、そんな彼らとの思い出を通じて、自分が感じた未熟さや、それを教えてくれた友人のエピソードについて振り返ってみたいと思います。それでは、本編をどうぞ。


若気の至りの極致

友人カップルの話をする前に、少しばかり時間を遡って、私のオーストラリア渡航の話をさせてください。これを語らないと、当時の自分がどれほど幼稚で無計画だったかが伝わらないと思います。

私は日本でのアルバイトで貯めた50万円を握りしめ、初めての海外渡航に挑みました。初めての飛行機、初めての外国、そしてほぼゼロに近い英語力というトリプルコンボ。普通なら、せめて英会話のフレーズ集くらいは頭に入れていくものですが、当時の私は「行けばなんとかなる」という謎の自信しか持ち合わせていませんでした。いや、むしろ「なんとかする方法」すら考えず、ただ勢いだけで飛び出したのです。

最初から無謀を象徴する馬鹿馬鹿しいエピソードがあったことを覚えています。日本からシンガポールを経由してオーストラリアに向かうルートです。乗り換えのシンガポールに到着しました。広大で綺麗な空港に降り立った私は、すぐに次のフライトの乗り換えゲートを探すことに。しかし、英語力がほぼ皆無だった私は、案内表示を読むだけで混乱状態に陥りました。

ゲート番号は「17」。しかし、空港内の案内板に書かれていた「Gate 10 to 20」を見た瞬間、私はこれを「10 と(日本語の助詞の“と”)20」と読み違えてしまったのです。そして、「17番ゲートなんてどこにもない! 存在しない!」とパニックに。

今なら「to」が意味することくらい小学生でもわかるレベルの語彙力ですが、当時の私はその程度のことすら気が付かないやばいレベルでした。案内板を何度も見直し、あちこちを歩き回りながら、「17番ゲートがない、ない!」とひたすら頭を抱える姿は、まさに漫画そのものでした。

どうしてもゲートが見つからない私は、意を決して空港スタッフらしき人に助けを求めることに。しかし、英語が全然できないので、ひたすら「17!」と数字を繰り返し、空中に「1」と「7」を指で描くという苦肉の策で意思を伝えました。スタッフの人は最初こそ怪訝そうな顔をしていましたが、どうにか意図を察して案内してくれました。

ようやく正しいゲートに到着した時の安堵感は今でも覚えています。

あの時の私は、英語がほとんど話せないだけでなく、まったく計画性のない状態でオーストラリアに向かっていました。

航空券は片道のみ。宿の予約もしておらず、「とりあえず行ってみて、帰りはなんとかなるだろう」という、これまた謎の自信に満ちていました。持ち物もまた、いかにも無鉄砲な若者そのものでした。大きな青色のバックパックと「地球の歩き方」だけを携え、未知の大地に挑む。いや、これを「挑む」と呼ぶのもおこがましいくらい、無防備で浅はかでした。自分の実力をまったく理解せず、現実的な準備も怠り、情緒的で曖昧な基準で行動してしまったのです。

若さゆえの無鉄砲さと、無知ゆえの自己過信。それが、あの頃の私のすべてでした。


シドニー到着からの右往左往。旅の現実

もちろん、ビザは事前に取得していましたが、振り返ると、あの英語力と準備不足で、よくシドニー空港のイミグレーションを通過できたものだと感心します。正直、どうやって通ったのか記憶が定かではありません。怪しまれる要素満載だったはずの私が、なぜスムーズに通過できたのか。未だに謎です。若さという見た目の無害さが、あらゆる疑念を超越させたのかもしれません。

イミグレーションを無事に通過した後、次に取った行動はバスの利用でした。とはいえ、どうやってバスに乗り、どこで降りたのか、細部はすっかり記憶から抜け落ちています。ただ一つ言えるのは、なんとか無事に市内までたどり着いたことだけ。きっと、その場で乗客や運転手に身振り手振りで助けを求めたのかもしれません。

到着後の最初の目的地は、「地球の歩き方」に載っていた観光案内所でした。そこには日本人スタッフが常駐していると書かれており、完全に頼り切って向かうことにしました。観光案内所はサーキュラキー近く、オペラハウスやフェリーターミナルが集まるエリアにありました。当時の自分には、英語が全然通じない世界で日本語が使える場所がまるでオアシスのように感じられたのを覚えています。

案内所に到着すると、まずその日の宿泊先を探してもらうようお願いしました。宿泊先を予約するのも、相手任せ。金額は覚えていませんが、おそらく一番安い宿を選んだはずです。宿を確保した後、スタッフが勧めてくれたのが「コアラクラブ」という場所でした。

コアラクラブは、シドニーにいる日本人たちのための情報交換所のような場所でした。観光案内所から徒歩10分ほどのところにあり、現地で生活する日本人にとって欠かせない情報が満載でした。シェアハウスやホストファミリーの募集、アルバイトの求人、語学学校の案内。まるで掲示板が生活情報の宝庫のようでした。

その日は場所だけを確認し、翌日改めて訪れることにして、予約した宿に向かいました。しかし、その宿は安いだけにひどいものでした。

宿に到着した私を待ち受けていたのは、最低限の設備しかない窓のない部屋。電気をつけなければ真っ暗です。トイレやシャワーは部屋にはなく、共同利用。しかも夜中、トイレに行こうと外に出ようとすると、廊下から激しい男女の怒鳴り声が響き渡っていました。その勢いに怖気づいた私は、結局朝までトイレを我慢する羽目に。若さゆえの無鉄砲さが招いた結果でしたが、その夜の恐怖は今でも鮮明に覚えています。


コアラクラブと語学学校の始まり

翌朝、意を決してコアラクラブに向かいました。まず探したのは語学学校。掲示板に貼られた情報を頼りに、一番コストが安い学校を選びました。場所はボンダイジャンクションという地下鉄駅の近く。名前は忘れてしまいましたが、その学校に入学手続きを済ませました。

入学手続きをする中で、住む場所の相談をしてみたところ、紹介してくれたのが今回の人物月旦の主人公である友人でした。
これから話が分かりづらくならないように、今回の友人を、友人の名前の頭文字をとって「高山くん」として話を進めます。

高山くんも日本人で、私より1歳年上。すでに3カ月前からシドニーに住んでいたため、いろいろと勝手が分かっている様子でした。彼のホストファミリーがちょうど部屋を募集しているということで、すぐに彼と一緒にその家に向かいました。


ようやく見つけた住処と新しい友人

その日のうちにホストファミリーとの契約を済ませ、1週間ごとに家賃を払う形で住む場所が決まりました。ようやく落ち着ける場所ができたことで、少しだけ肩の荷が下りた気がしました。

それ以降、私はその高山くんと一緒に語学学校に通い、オーストラリアでの生活をスタートさせました。彼は私よりも少しだけ先を行く存在で、右も左も分からなかった私にとって、心強い道しるべのような存在でした。この出会いが、シドニー生活のスタートを支えてくれる大きなきっかけとなったのです。

高山くんと共にオーストラリア生活をスタートさせた私は、学校に通いながら英語力を少しずつ伸ばしていました。若いというのはそれだけで大きなアドバンテージで、最初はまったく耳に入ってこなかった英語も、学校の授業や生活の中で繰り返し触れているうちに、片言ながらも会話が成立するようになりました。初めて一人で何かを買ったり、道を聞いたりできるようになった時のことは今でもはっきりと覚えています。

とはいえ、シドニーで通っていた語学学校には大きな問題がありました。クラスの半分以上が日本人で占められており、休み時間や授業後になると、日本語が教室内に飛び交っていました。もちろん、現地に友達ができるまでは、同じ境遇の日本人と繋がることは心強いことでしたが、気が付けば英語を話す機会が極端に少なくなっていました。

授業が終われば、自然と日本人同士でつるむようになり、放課後や週末には観光地を巡ったり、食事に行ったりする日々。最初は楽しかったものの、次第に「これではいつまで経っても英語が上達しない」という焦りが生まれました。英語を学ぶためにわざわざ日本を飛び出したはずが、これでは日本で生活しているのと変わりありません。

高山くんも同じ考えを持っていました。彼もまた、自身の英語力を伸ばしたいという強い意志を持っていたのです。「このままじゃ駄目だよな」と言い合いながら、日本人コミュニティーから抜け出す方法を一緒に考えました。彼は私のことを心から応援してくれていて、どうすればもっと英語が上達するのかを一緒に模索してくれたのです。

そんな中で、私は一つの大胆な決断をしました。それは、思い切って今の住まいを離れ、シドニー郊外に引っ越すことでした。具体的には、ベラウラという郊外の街に移る計画を立てたのです。そこに住めば、日本人コミュニティーから物理的にも距離を置くことができるうえ、シドニー市内を17時にはでないと駅からの終バスに間に合わないため、放課後の付き合いを断る口実にもなります。

高山くんにも一緒に引っ越すよう誘いましたが、それぞれが独立して一人になる事に意味があることと、また彼には当時日本から追いかけてきた彼女がいたため、シドニー市内を離れることはできませんでした。「お前が頑張るのはいいことだけど、俺は市内から動けないな」と笑いながら言う彼の姿に少し寂しさを覚えつつも、私は一人での引っ越しを決めました。


日本人コミュニティからの脱出

引っ越し先として選んだベラウラは、シドニーから電車で2時間ほど離れた郊外の街です。自然豊かで、都会の喧騒からは程遠い場所。新しい環境に馴染めるか不安もありましたが、「この環境なら英語だけで生活できる」と期待していました。何よりも日本人コミュニティーから抜け出せるという希望が大きかったのです。

引っ越し初日は、ベラウラの駅に降り立った瞬間から「本当に大丈夫か?」という不安が押し寄せました。周囲には小さな商店と住宅街が広がり、シドニーのような活気はありません。静かすぎて、むしろ自分がこの場所に馴染めるかどうかが心配になりました。

ホームステイ先は、オーストラリア人の夫婦が営む一軒家でした。家の中はシンプルながら清潔感があり、リビングの大きな窓からは裏庭の緑が広がっていました。ホストファミリーはとても親切で、「英語を話す環境を求めてここに来たんだ」と伝えると、「それなら遠慮なく質問してね」と笑顔で答えてくれました。この優しさが私の不安を少し和らげてくれたのを覚えています。

この新しい環境では、日本人が周囲にいないため、否応なく英語を使わざるを得ませんでした。学校から帰るとホストファミリーと会話をし、食事の時間も英語。最初はぎこちなくても、なんとか言葉をひねり出し、意思を伝える努力をしました。週末にはホストファミリーに誘われて近くの公園や観光地に出かけ、彼らの友人たちとも交流しました。そのたびに「もっと英語が話せたら」と歯がゆい思いをしましたが、これこそが自分が求めていた環境だと感じました。

一方で、この引っ越しによって、高山くんとは学校でしか顔を合わせられなくなりました。平日の短い時間に話すだけの関係になってしまい、少し寂しさを感じることもありましたが、ただ、会えば高山くんと彼女は、私を弟のように様子をいつも気にかけてくれていました。そして私の英語力の成長も喜んでくれていました。

ベラウラでの生活は徐々に私を成長させていきました。英語での日常に少しずつ慣れ始め、最初は不安だったこの街も次第に心地よく感じられるようになりました。そして、引っ越しから数カ月後、「日本人コミュニティーから完全に脱出できた」と実感する日が来たのです。

完全に日本人コミュニティーから離れた生活に慣れてきた頃、私はようやく「英語の壁」を少しずつ超えられるようになりました。ベラウラの静かな街並みの中で、英語だけを使って生活する日々が、自分の中で少しずつ確信と自信に変わっていったのです。ホストファミリーとも気軽にジョークを交わし、近所の店では自分で買い物を済ませ、必要な時には電話で注文や問い合わせをすることもできるようになりました。

そんな時、次の課題が立ちはだかりました。それは「お金」でした。節約しながら生活していたとはいえ、もともと持ってきた貯金は底を突きかけていました。このままでは語学学校の学費すら払えなくなるという現実が、じわじわと迫ってきたのです。

もう一度市内へ戻る決断

お金の問題を解決するため、アルバイトをしなければならないという結論に至りました。しかし、郊外の街では仕事の選択肢が限られています。そこで私は、再びシドニー市内に戻ることを決めました。これ以上ベラウラでの生活を続けるのは、現実的に厳しいと判断したのです。

シドニーに戻ると、まず目指したのは「キングスクロス」というエリアでした。この地域は、バックパッカー向けの安宿が多く、物価が高いシドニーの中でも比較的手頃に滞在できる場所です。私は、ベッドだけが提供されるドミトリーに住むことにしました。プライバシーはほぼ皆無でしたが、食堂で出会う他国籍の宿泊者たちとすぐに仲良くなることができ、結果的に楽しい日々を送ることができました。

ここでの生活が、私にとって新たな出会いと学びをもたらしました。ドミトリーで知り合った外国人の一人が、ヒルトンホテルのバックヤードの仕事を紹介してくれたのです。

初めてのアルバイト

ヒルトンホテルのバックヤードでの仕事は、主にパーティー等ででた食器を洗浄ベルトに流すというシンプルなものでしたが、驚いたのは賄いの豪華さでした。仕事の合間に自由に食べられる食事は、一流ホテルのパーティーやブッフェで出されるような料理が並んでいました。私は、そこでサンドイッチやフルーツを少し余らせ、お土産にしてドミトリーで食べることもしばしばでした。

仕事そのものは単調でしたが、同僚たちとの交流が楽しく、英語を使う場面も多かったため、自分のスキル向上にも繋がりました。そして、宿泊先でも次第に特に仲の良くなった仲間たちと、「共同生活をしよう」という話が持ち上がったのです。


多国籍の人たちとの共同生活

ドミトリーで出会った特に仲の良い仲間たちは、デンマーク人の男性、スウェーデン人の女性、そしてイギリス人のカップルなど、多国籍でバラエティに富んだメンバーでした。彼らと一緒に過ごす時間はとても居心地が良く、次第に「このグループでフラットを借りた方が安上がりだし、楽しいだろう」という話になりました。全員の意見が一致し、私たちは市内にあるテラスハウスのような建物をフラットとして借りることに決めたのです。

私たちが借りたフラットは古い建物でしたが、広々としていて居心地が良く、隣の部屋には、また別のイギリス人グループが住んでいました。すぐに隣人たちとも仲良くなり、日常的に行き来するような関係に発展しました。そして、ある日、誰かが暖炉のレンガを外してみたところ、隣の部屋と繋がっていることに気づきました。

その暖炉を通じて自由に行き来できるようにしてしまった私たちは、もはや2つの繋がっているテラスハウスで暮らす1つの大きな家族のような状態になりました。私たちのグループは7人、隣人は5人。合計12人が一つ屋根の下で暮らすような状況で、賑やかな生活でした。もはやプライベート空間はなく、以前いたドミトリーのような状態になりました。でも毎日が楽しかった記憶しかありません。

その後すぐ、私の唯一の日本人の友人である高山くんと彼の彼女も、この共同生活に加わることになりました。2人が加わったことで、最終的には14人という大所帯になりました。国籍や文化が違っても、不思議と家族のような絆が生まれ、毎日の生活は笑いに満ちていました。

サーフィンと友情

高山くんはサーフィンが趣味で、よく彼女とビーチに出かけていました。私も高山くんに誘われて一緒に行くようになり、初めてサーフィンに挑戦しました。最初は波にのまれてばかりでしたが、高山くんは根気よく私にコツを教えてくれました。一緒に波に乗れるようになった時の達成感は、今でも忘れられません。

私にとって、高山くんとの時間は特別なものでした。異国の地で、最初からの知り合いだった彼の存在は心の支えであり、家族のような存在でした。高山くんの彼女とも自然と更に仲良くなり、3人で過ごす時間は、まるで兄と姉と弟のような温かさがありました。

しかし、そんな楽しい日々にも終わりが近づいていました。

帰国の決断と高山くんからの贈り物

オーストラリアでの滞在が1年半を過ぎた頃、私のビザの更新ができないことが判明しました。私は帰国の準備を進める必要がありましたが、問題は帰りの航空券を買うためのお金がなかったことです。

帰国に向けて航空券を買うためのお金を工面しなければならない状況に陥った私は、途方に暮れていました。当時の私にとって、帰国の道は経済的にも精神的にも遠いものでした。誰に相談することもできず、不安と焦りだけが募っていきました。

そんな私の様子を、高山くんは黙って見過ごすことはありませんでした。ある日、高山くんが突然、私の目の前に航空券を差し出したのです。それは、香港経由で日本に帰るオープンチケットでした。きょとんとしている私に、高山くんは「これ、使えよ」と一言だけ言いました。

信じられない思いで、「なんで?」と聞くと、高山くんは笑いながら、「俺は何とかなるし、最悪、親に泣きつけば出してくれるから」とあっさり答えました。その言葉に、私は一瞬返す言葉を失いました。自分が帰国するためにチケットを譲るという行動が、どれほどの決意を伴うものか、瞬時に理解できたからです。

その場で断るべきだったのかもしれません。しかし、当時の私は高山くんの言葉に甘えるしかありませんでした。深い感謝を抱きながらも、それをどう表現すれば良いのか分からず、「ありがとう」の一言で済ませてしまった自分が恥ずかしく、情けなく思えました。高山くんの真摯な行動が、逆に私自身の未熟さを強く自覚させた瞬間でした。

空港での別れ

帰国の日、高山くんは空港まで見送りに来てくれました。黙って手を振る彼の姿を見ながら、私は胸がいっぱいになりました。しかし、驚いたのは、私が日本での連絡先交換を振り出すまで、日本での連絡先の交換を高山くんが一切求めてこなかったことです。あくまで私の帰国を支えることが目的で、それ以上のことは考えていないようでした。

帰国後、私から手紙を送り、時間がかかりましたが、チケット代は無事に返却することができました。しかし、高山くんのその時の行動は、「返してもらえるかどうか」など考えていなかったのだろうと思います。それ以上に、「今この瞬間に必要な助けを」という思いだけで動いてくれたのだと感じています。

高山くんのような行動を、私自身が逆の立場で取れるだろうか。帰国してからも、その問いが頭を離れませんでした。結論として、当時の私には到底無理だったと思います。それどころか、今の私ですら、当時と同じ状況になったら高山くんと同じことができるか自信がありません。彼は、自分の利益や安全を二の次にして他人を助けることができる、真の意味での「大人」だったのだと、今でも思います。

高山くんのような友人に出会えたこと、それが私のオーストラリア生活で得た大きな財産でした。私は彼との経験を何度も振り返りながら、その後自分がどう生きるべきかを考えるきっかけにしました。そして、未熟な自分に気づかせてくれたこと、それが何よりの贈り物だったと感じています。

この話は、高山くんと彼の彼女、そして私との偶然の縁が生み出した、小さな物語です。

話はここで終わりますが、高山くん、改めてありがとうございました。今でもあなたの行動が、私にとって指標のように輝いています。

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