見出し画像

東京の雑踏の中で探し物を見つける

見出しをつけるとそれぞれの時間が独立したものに映りやすくなってしまうとの考えから、意図的に見出しをつけていない。こんな文章にもお付き合いいただけたら幸いである。


 私自身は楽器の修理をしに、そして探し物をしている人に合流して東京まで行ってきた。東京は、今私が住んでいるところよりも空気は綺麗じゃないし、星もよく見えない。人の数が多くて息苦しい。だけど、雑踏の中で探し物を見つけるのがたまらなく好きだ。綺麗なものや、自分のお気に入りを混沌から見つけられた時の喜びはとても大きく、そういうものはずっと大切にしたいと思うものだ。自分だけしか見つけられなかった特別な気分になれるからだろうか。この感覚をどうしても味わい続けたくて、私は週に一回くらい東京へ足を運ぶ。

 快速の次に早い電車に揺られて東京へ向かう。思えば不思議なメンバーだ。私の楽器を直しに行くことも割と今日、突然決まったことだったので最初は3人という空間を作るのが難しいなぁとか思いながら、おしゃべりしつつ途中途中で課題をやるなどしていた。あっという間に東京に着いて、東京のメインストリートとも言えるであろう、某所にたどり着いた。全ての建物が高くて、空の見える面積が小さいね、と一緒にいた人たちが話してるのが聞こえた。私はこの懐かしい通りを静かに見つめていた。昔ここにあるデパートで自分の描いた絵が展示されたこともあったっけ。

 そんなこんなで目的地に辿り着き、私の楽器はすぐにいい状態にしてもらった。2人のうちの1人は、弓を探していたので、小さな試奏室の空間を3人で共にしてあれでもないとか、これでもないとか言いながら、2時間ほど「弓」「音」「質感」に向き合っていた。感性を刺激される時間だ。私はこういう時間が好きなので、とても楽しく付き添わせてもらった。先入観がなくても、結局いいよね、ってなったものがその業界的にも価値のあるものだったので、みんながいいって言うものってなんだろう、こればっかりは理論化されてないよなぁきっと。という気持ちになりながら試奏室をあとにした。    

 その後は、楽譜を見たり。CDを見たり。特別お目当てのものがあるわけじゃないけど、「何か」を探す時間がとても好きなので楽しいひとときだった。私は東京にいた時によく楽器屋さんや、本屋さん、雑貨屋さんでこういう時間を持っていたのだけれど、こういう時間ってあまり持てないので久しぶりに自分自身とも向き合えた気がする。モノが多い東京だからこその充実時間だ。

 夏至が近づいているから、まだそんなに外は暗くないけれど、月が良く見える時間になった。私たちはお店をあとにして、食事のお店を探すことになった。
 さすが東京!なのか、近所には手頃なお店が全然ない…選択肢がありすぎるところでモノを選ぶのは楽しいのだけど、とても時間がかかっちゃうよね〜となり、結局今住んでいるところまで帰ることに。ちょうどお仕事帰りの大人で満員電車の時間だ。楽器を持って満員電車、と考えると中高六年間の通学のことが思い出されて、少し懐かしい気分になりながら電車に揺られた。行きの電車では課題をやったりしていたが、電車に乗って早々に課題を提出し、話に花を咲かせた。これだけで、今日これまでに共有した時間の濃さを感じられて密かに嬉しくなった。

 帰りの方があっという間に感じるのはなぜだろうか。あっという間に最寄駅に着いた。いつもの(といっても私は初めてだったが、それくらいの安心感のある)お店に入った。

 オーケストラの話をしたり、学問の話をしたり。とても楽しいひとときだった。美味しいお酒と、美味しいご飯と、ちょっと頭使うけど前述したような楽しいお話をする時間がとても好きだ。こういう空間だと自分の思考も不思議とまとまって、脳内に渦巻いている言葉が形となって出てくるものだ。

 音楽家の話や、作曲家の話、音楽の話をしていても思うが、オーケストラはみんな何か欠けているからオーケストラなんだなと思う。一つの欠けがあるということは二つの尖ったところができるわけで、それがうまくパズルピースのようにカチッとはまり、指揮者も含めてやっとパズルの完成形になる。ピースに歪みがあったり、傷があったりするとパズルは綺麗ではないし、すぐにバラバラになってしまう。大人数で一つの音楽を作るってそれくらいの影響力もあるし、互いの関わりが大事なんだなというお話をした。

 哲学的なお話でも盛り上がった。私は他の二人ほど詳しくないので、勉強不足だ…と思いつつ話していたが、たくさんの「?」と「!」が生まれる空間で、大変良い時間だった。こういうものを生み出すために人は生きているし、他者と関わりをしていく生き物なんだろうなぁとうっすら考えるなど。

 やはり最近の話題といえば、生成系AIの話になるのだがこの議論から「ア・プリオリな知識」や「ア・ポステリオリな知識」、ソシュールの「言語には差異しかない」や「シニフィアン」、「シニフィエ」、サピア・ウォーフ仮説、話になるのが私としてはとても嬉しく楽しい時間だった。人間の「経験」とAIの「経験」は違うものだと思う。例えば、今日のような素晴らしい日があったとして、今日はいい日だった。と思うのは私のこれまでの人生と比較しているのではなく、主観的に思っているものだ。(少なくとも私はそういう思考回路だ。)知識が埋め込まれた彼らはこれまでの知識から体験を比較して、平均化して、今日はいい日だった。と言うのだろう。
 あとは植物にポジティブな言葉をかけると花が咲く、といった話から派生して、全く意味の知らないどこかの国の言語で私たちがポジディブ、ネガティブな言葉をかけられたらどう感じるのか?
 世の中に溢れている情報や知識を共有する上でそれらがどんな人にも同じようにインプットされるものじゃないと、今度アウトプットする時の差異が感性によるものだけじゃなくなるのではないか?という話など…

 いつも先生とするような話が日常で、しかも同年代の人たちとできたことが嬉しさを感じつつ居酒屋でなんの話ししてるんだ、と思いつつ。でも私はこういう時間がとても好きだ。ともかく、一人だとここまでの話はできないし、こんな話ができる人たちもそうそういないわけで、ここまでの議論ができる空間を構成してくれた2人には感謝しかない。できることなら、またこのような時間が持てたらと思う。

 そんなわけで午後からのわりに大変長い一日を過ごしたわけだ。話した内容など全部かけたわけではないが、時間と共にあの場所で昇華してしまったものも時間の流れと共にそれらが生きていると考えれば、またきっとあの時間に似た時間に出会える日が来るだろう。

 実は今回のタイトル、最初は「東京の雑踏の中で探し物を探す」にしようとしていた。「東京の雑踏の中で探し物を見つける」にした理由がこの文章を読んでくださった人に伝わればいいな、の気持ちで筆を置こうと思う。

いいなと思ったら応援しよう!