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心地よい自由さ

定期的に聴きたくなる演奏がある。角野隼斗さんのラプソディー・イン・ブルー。


既存の枠組みに囚われすぎず自由に、でも作曲者をリスペクトするのが伝わり、全身で表現したい音楽をしているのがかっこいい。


人生こういう感じでいたいな、と思うことが多くて思い出してふと聴いていた。


私は自分で決めたことは大丈夫だが、人に細かく決められたことをその通りにやるのがとても苦手だ。息苦しくなってしまう。自由にさせてくれ、と心が叫んでいて、そこから逃げ出すためのことしか考えられなくなる。(みんなはそんなことないのかな?)

大人なのだから最低限守らなきゃいけないことは守って、あとは自分の責任で人に迷惑かけずに自由にやれればそれでいい、と思ってしまう。
中学から高校に上がる時、先生が言っていた。中学と違って、高校は義務教育ではないし、そう言う意味でも自分たちで選択することが増えてある意味自由さが増すけれど、自由には必ず責任が伴うということを忘れないでほしい。と。周りは自己責任になるのが不安とか言ってたけど、私は断然そっちの方が自分にとっては楽だと思った。

そもそも、私がなぜこうなったかと言うと、真面目にしていると疲れてしまうのをよく知っているからだ。小学生の頃から自分は身長も高かったし、図鑑ばかり読んでたせいでちょっと物知りだったし、大人に褒められるのが嬉しくて優等生をしていた。委員会の委員長とか前に立つ仕事もよくやっていた。
でもいつからか、それに疲れるなと思う時があって、肩の力を抜くようになって。高校でも前に立つ仕事は続けていて、楽にそういう仕事をやりつつ今に至る感じ。多分大事にすべきものがわかったのだと思う。

大事にすべきは、優等生の私、ではなくて私を表現できている私、だと気づいたのだ。
グループのリーダーをやる自分がかっこいい、大事、ではなくてどうしたらグループのみんなが居心地よく幸せでいられるか考えることの方を自分は大事にしたいと気づいたのだ。結果的にリーダーをやることに変わりはないけど、動き方とかモチベーションがずいぶん違う。


最近は周りとの温度差で疲れてしまっていたけど、それもよく考えれば自分は案外人より自由人ゆえ真面目な人たちを見ていて、昔の自分を見ているようで嫌になった、ってのもあるのかと気がついた。どんどん個性がなくなると言うか、画一化されて、「私」がなくなっていく人を社会でたくさんみるから、周りが自分の目にそう映って辛くなったのだと思う。

神出鬼没キャラでいるくらいが一番ちょうどいいな、と自分は思う。多分みんなが思ってるより私は適当な人間だよ。

でも、その適当はみんなのことを雑に見てるとかそういうわけじゃなくて、広い世界の中で1点だけをみるんじゃなくて数点を見ながら生きていきたいという私の思いがあっての適当さだと思う。

狭く深く、より、広く浅くの付き合い方をしてそこから狭く深くの人には見えない、新しいものを作りたい。逆に私が見落としたものは狭く深くの視点の人が拾ってくれてるのだろう。

囚われてる感覚って気分のいいものではない。だから、心地よい自由さを自分にも、周りの人にも見つけてほしいし、それが継続できるような環境づくりをしたい。

たったそれだけのこと。だけどこれは結構大変だから時々元気なくなる。時には人の力を借りつつ、広い視点で拾えるものをたくさん集めて、これからも心地よい自由さを求めていく。

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