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パラリンピックを正しく見よう
障害者雇用とか発達障害について、毎週日曜日に書いてます。どちらかというと障害者雇用管理者向けに書いてます。たまに関係ないことも書いてます。この冒頭の文章は、ここまでテンプレです。
私の記事を参考にnoteを書いていただいた方がいらっしゃったようです。大変ありがたいことです。
せっかくなので、こちらのカヅパパさんの記事の内容を読みつつ今日の記事を書きます。hideの曲で言うと、miseryとflameの関係だと思っていただければ幸いです。
パラリンピックは全ての障害者のためのものではない
基本的にはカヅパパさんの意見に近く、私もパラリンピックは障害者全てが対象ではないよね派です。
障害の基準があるが故に、「基準を満たす」ために悩むと言うような記事さえありました。
スポーツなので競争です。体力も知力も必要ですし、女子テニスの話題の通りメンタルも試されるものです。
そう考えると障害者全てが対象でないことは自ずとわかります。
その一部の障害者スポーツをみて「教育的価値」を見出そうと、TOKYOのボスは子供たちの観戦を推奨しようとしているようです。(ボス曰く修学旅行に教育的価値は見出せなかったようです)
教育的価値はどこにあるか
ダイバーシティの考え方からすれば、障害も多様性の一つですので、パラリンピックを特別視して教育的価値を見出すと言うのはどうなんだろうと思います。
オリンピックの選手もさまざまなハードルを乗り越えて来ているのは皆さんご承知の通りです。
すでに老若男女、人種、趣味嗜好の多様性を取り込んだオリンピックに、障害者スポーツだけ「別の大会」な訳です。まぁ、なぜかといえば車椅子バスケとかのように違うスポーツだからです。
では、どこに教育的価値があるか。
もしふだん障害者との接点がないような方は、パラスポーツを通じて、障害者(車椅子ってこういう動きするのか、目が見えないと音を頼りにするのか、など)を知るきっかけとなることは大事だと思います。
それにより、街で駅で車椅子の方や、白杖の方が困ってそうな時にサポートしてあげられる優しい社会になるのはいいことです。
課題は?
残課題としては、それがまだ全ての障害者をサポートする社会ではないことです。
免疫不全の疾患であったり、てんかんであったり、高次脳機能障害であったり、見た目ではわからない人は、このパラリンピックでは出てこないですし、世間に認識されません。(もちろん、私が普段言及している発達障害や鬱など、まだまだ他にもたくさんあります)
もっとも恐るべきは「車椅子や義足、白杖のみが障害者である」と誤って認識されることです。
教育関係者など、子供たちにパラリンピックを「教育機会」とする人は、その辺りを適切に説明する必要があるでしょう。
オリパラ招致から、延期、開催と、ここまでしたからには、日本の子供達による新しい社会形成というレガシーを残すことが求められると思います。