朝
心を健康にするのって結構簡単で、例えば早起きして体にいいもの食べるとかトイレに行くとか、喚起するとか。コップ一杯の水で昨日の分の嫌なことって全部胃に消化される気がする。不安な未来、40歳のわたしの惨めな姿を想像して泣いたことも。全部。体温を測って平熱を確認する。パソコンにずっと挿したままにしている電源コードを抜いてずっと開いてた資料を閉じる。それだけで自分自身が洗われるような気分になった。暖房の温度を少し下げる。充電が0パーになってたiPadを充電して、昨日布団に入って30分後くらいに机の上から落ちたリップを拾って乾燥した唇に塗る。歯磨きをすると口の中がスッキリした。シーツとタオルケットを洗濯機に入れて、待つ間は頭の中でぐるぐるしてる思考を言語化しようとがんばる。久しぶりに紙とペンを持って文字を書いた。簡単な文字なのに書き損じが何枚もある。愛おしい。
初めて2週間も一人ぼっちになっている。昨日も声を出さなかった。ひとりでいるのが初めてなので、画面の向こう側ばかり気にしてしまっている。
あの頃、家の前の細い道を何度も往復してたら1日が終わっていたあの頃、退屈な瞬間なんて一秒もなかったあの頃。画面を知らなかったあの頃。画面に憧れたけど、手に入れられなかった、知らなかった、あの頃。
暑い夏、汗だくになるまで家の前のあんなに細い道で、一体何をしてたんだろう。家の電気は点いていなくて、台所で母がおにぎりをにぎっていた。家に入ると夏の匂いがした。涼しい風が心地よかった。眩しい外から中に入った部屋は真っ暗で何も見えないけれど、庭の光が綺麗だったし、天窓に照らされた母はとっても優しかった。
大きなブルーのお皿に並べられた、今の私じゃ片手で一口、あの頃の私には両手で三口くらいの大きさのおにぎりは、何より美味しかった。母はいつも胸の前に分厚い手をぶらぶらさせていた。小さい正方形の机のよこに正座する。両手を両膝に挟んでお尻で跳ねて母を待つ。妹と姉もそろったら、みんなで手を合わせていただきますと叫んだ。四方向に全員が座って、わたしはいつも姉と妹のあいだだった。全員が誰かと誰かの真ん中にいて誰かの正面で、どこを見ても、身体のどの部分も、誰かと触れ合っていた。誰も寂しくなかった。愛おしそうな笑顔をしている母の顔を、わたしはずっと忘れていた。汗でめちゃくちゃになった前髪を、愛おしそうに触る母を、母の湿った指の先を、わたしはずっと忘れていた。手についた米粒を一生懸命口に入れるあの必死な空間も、おにぎりを強く握りすぎてぼとぼとこぼす妹も、わたしと妹が頬張るのを待って、最後におにぎりに手を伸ばす姉の姿も、それに気づいている母の横顔も、全部忘れてしまっていた。いま思い出すためにずっと忘れていたのかもしれない。
画面の中に記憶なんてなかった。2018年2月10日から記録される投稿には、ただ日付っていうデータがあるだけで。撮った写真を覚えていても、撮られた写真は何も覚えていない。画面は何も覚えていなくて、何も教えてくれない。画面を通して過去を見ようとする。過去は、画面の中にはなかった。
涙が出るのは、忘れてしまっていたものが映像となって頭の中に現れて、そしてそれを見つめようと目を閉じるけれど、広がる闇、やっぱり自分でみないといけないんだと、大きく目を開くからだ。大きく目を開いた先には結局何もないけど、目を閉じた先に何もなくて。脳みそのしわを駆け巡るあの日の暑さとか、それだけが目の奥をじんわりと温める気がした。
失っていた記憶を取り戻したとき、泣いた友人がいた。
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