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興行と文化事業から見える社会@芸術的人間学Vol.3

■スポーツも表現の世界も

 連日、国会議員の森喜朗氏の問題発言の報道。

 私自身もいつも社会問題に関心を寄せて生きている。
社会というのは、御幣を恐れずに言うと、差別と偏見と理不尽で
成り立っていて、だからこそ皆が意見をし議論をし考えないといけない。

 正論としての正義としての差別を許さない、偏見を許さないは
理解している。私自身、池袋暴走事故の飯塚幸三が非を認めない
姿勢に、被害者の発信と共に賛同し声をあげている。
ただ今の社会は、そこに倒れてまでなお吊るし上げる風潮には
賛同できない。やはり、一定の目的や目標を達したならば、
それ以上の人格否定や人権否定は避けるべきに思う。
まして、盗んだり、危害、残虐性のある行為でない限り。
マウントを取り続けて一斉攻撃には、いささか疑問である。
なぜなら、今まで意見しなかったものが、ここぞとばかりに
攻撃をして、優勢にならなければ言わず、それまでは沈黙していた
訳である。この風潮こそがさまざまな問題を生んでいる様に
私は思う。

 スポーツにせよ表現の世界にせよ、
個人の人間性はあるのだが、考えなくてはいけないのは、
その権力構造、組織の構造、オリンピックにせよ、
競技より利権が絡むからさまざまな問題が起きても有耶無耶に
されてきた事が多いのではないだろうか?

 スポーツも音楽も大きなイベントを開催するには、
運営費に莫大なお金がかかる。オリンピックになると
競技以外の経済効果、国や企業との利権、さまざまなものが
絡むと結局は権力持つ人間の近くにいれば食いっぱぐれる
事が無いから従うのではないだろうか?
またスポンサー金が集まらないだろう。
中国や北朝鮮の様な国だと、そこに権力で従わすために
恐怖を与える訳で。

 確かに言葉尻を捉えての差別や偏見も問題であると思うが、
まだ自分の名前を出して発言している人は、この様に問題提議と
なるが、SNSでハンドルネームで好き勝手発言しているのが大半で、
思っていても問題になるから黙っていようと社会が向かう気がする。
それは、LGBTの問題の流れを見ていても思う。

 Vol.2でも取り上げた潔癖症な社会が生む歪や
Vol.1でも取り上げた、正解、答えありきの社会
に共通する問題がある様に思う。
議論や対話で無く、あなたは正しくて、あなたは間違っている!
これが正解で、これは不正解である!だけで社会を進めて
いくのだろうか?答えが出なくとも、平行線だろうと、議論や
対話というのが何かを知る、何かを分かち合う事に
繋がるのではないだろうか?

 大きな流れというのは、名実ともに力がある者もいれば、
お金になると思って動くことの方が多い様に思う。
それは、ビジネスという視点でしか考えられない社会の弊害として、
文化、芸術の在り方も難しくなってきたように私は感じる。
単にスポーツ運営するなら森氏で無くてもできるように、
オリンピック選手、候補選手がスポンサーを撤退するのも
コロナ禍の不景気だけの問題では無い部分がある。
企業も何らかのリターンを求めている訳で。

 今回の森氏の発言は、ここまで大きく取り上げているが、
地方都市の県会議員や市町村議員、ライオンズクラブや、ロータリークラブの年輩の方々の話している内容を知れば言葉を失う人は
多いのでは無いだろうか。
芸人の営業問題にせよかつての演歌の世界にせよ、
今ではタブーな事がまかり通っていた時代がある。
政治の手腕も同じで、多くの年輩の政治家が今の時代に
ついてこれていない人達は多い。

 それは自分に置き換えても分かりやすいのではと思う。
かつて通じた事で、今は通じない事はあるし、
教育でも厳しさは必要だと思うが、しつけもされてないのに
褒めて育てろとか無茶苦茶な話は存在するし、
特に高齢の人達を変えようと思っても変わらないからこそ、
若い人達がどんどん台頭していけば良いのだと思う。

■メディアやYoutube

 メディアとYoutubeで異なるようで似ている部分は多い。
どちらの世界も、ビジネスとして戦略や視聴率、登録者数、再生回数と
見える数字が重要であるということ。
スポーツの場合は、試合実績や記録が実力として
分かりやすいがエンターテインメントや研究者、学者は、
非常に分かり辛い。

 その戦略の下で知名度も生まれていて、
事務所の力関係が関係したりもする。
そういう影響力というのは、専門的な能力というより
ある種詐欺師の様な能力と言うかなんというか。
それは新興宗教のこれまで問題となってきたさまざまな
教祖などを見ても分かる様に思う。人の心を掴む話芸は
ある様に思う。

 興行というのは、常にブランディングやマーケティングや
戦略や需要というのが大切で、文化事業とはベクトルが
逆の方向に向かっている。メディアもYoutubeも規制はあるが、
圧倒的にメディアの方が規制が強く、Youtubeの方が自由さは
ある様に思う。

 先日、有名Youtuberが某テレビのドキュメンタリー番組に出演していた。
その流れをyoutubeで流していたが、youtuberと親しいアパレル会社が
スポンサーとなり、それで枠を買い、やりたい番組をしたようだ。
今回のオリンピックの森氏の話もだが、誰が顔かでお金が動く、
動かないが起こるのは世の常に思う。

 これこそメディアにせよ、スポンサーにせよ企業理念や
品位が問われる部分で、興行もパワーバランスを崩せば、
偏りが生まれるという事の様に思う。

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■文化事業

 私のやっているクラシック音楽の多くが文化事業的なコンサートが多く、
芸能系のアーティストとはまた違う。このコロナで演劇などの役者の世界も
声明を出していたが、舞台中心の役者とテレビ、映画中心の役者では、
1本の出演料が違うし、同じ役者として1つの役者で語られるのには
無理がある様に思う。

 若い頃からよく「コンサートに人が来ないとコンサート
できないんだから!」とか、「その人有名なの?」と色々な言葉を
耳にしてきた。文化事業でも、集客の努力はすべきだとは思っているが、
文化、芸術の育成には、興行と同じ感覚では難しい。
需要に応えるジャンルや、最大公約数で物事を図る事も大切だろうし、
それでも、需要が少なくても大切にして欲しい事や、
触れて欲しいものは存在すると思う。

 行政や財団が主導する文化事業も、
何か最大公約数に理解してもらう為に、文化、芸術の
効能やどういう効果をもたらすかと説明を求める声や
そういうアプローチで進めるものが増えてきているように思う。
それは正直、その時点でつまらない。
結局は、物事の進め方が答えありきや、正解ありきなのである。
言葉にならないものを代弁する踊りがあったり、器楽演奏の音楽が
あったりする訳で、全て言葉にできないと推し進められないの
だろうか?

 かつては、魂の浄化には、音楽こそが最も有効な手段であり
音楽は、宇宙や自然の調和と秩序が反映されており、魂の回復に
繋がるとピュタゴラスは考えていた訳で。
プラトンにせよ体育は健全な肉体を育て、音楽は健全な魂を
育むと。

 効能や効果は、音楽を使ったレクリエーションに過ぎず、
意図するもの、意識するもので面白いものは生まれない。
ノーベル賞を取る研究を考えても答えを分かって取り組んだのでは
無くて、偶然に起きた事から、答えや正解を探しているのである。
この探す作業が文化事業にも大切に思う。

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