人と違う事が勲章の世界
■自分らしさや多様性
「自分らしさ」という言葉や「多様性」という言葉が
日本で急激に叫ばれるようになった。
そして、何かこの言葉だけが1人歩きしている様に思う。
私は、自分らしさや多様性というのは、まずは、自分と言う個が
無い限り成立しないように思う。
世の中は、色々な環境で育ってきている人達がいる。
一見裕福そうに育っている様に見えても、子供が親の
おもちゃかロボットみたいに生かされている者もいれば、
裏社会や愛情を受けずに育った者もいれば、育ってきた
環境もそれぞれ。
人間関係や環境や境遇によって自分らしさというのは、
すぐに辿り着く事では無いように思う。見る景色、
食べる物、出会う人達、どれだけの事に触れ、どれだけの事を
経験してきたか。その中で、個が確立し、自分らしさが
生まれていく様に思う。
多様性も1歩家の外を出れば、もうそれだけで多様性の
世界で、色々な人が学校や職場や社会には存在する。
何度も言う国際化やグローバルという言葉も、
大陸の大陸文化と、島国の島国文化の双方を知らないと
国際化やグローバルというものが本当に理解できない様に思う。
それは、人種、国籍、言語、風土、歴史、文化、習慣などが
違う個の集合体が国際化であり、グローバルの世界であるので。
■欧米などの大陸での教育
先ほど述べた様に、大陸では、よっぽど白人至上主義の学校で
無い限り、1つの学校自体が多国籍で、見た目も肌の色も違う。
多様性が日常であるということ。
今の日本は、何か理解することが良しで、理解できない事を悪と
しすぎている事があり、人それぞれの良し悪しが存在する事が
ダメではない様に思う。例えば、ある人にとって好物な
食べ物があっても、ある人にとっては嫌いなものがあって、
そんなものはいくら言葉で説明したところで変わる事は無い。
だから今の様に、何でもかんでも問題、問題と言い出すと、
おそらく偏見、差別が地下に潜りだす様に思う。
欧米では、激しく意見をぶつけあう対話がなされる。
勿論、大陸にだって偏見や差別が存在するし、でも声をあげて
議論する。日本のメディアやなんちゃってジャーナリスト達のせいで
意見の相違を単に対立構造に持って行く人達が増えた様に思う。
そして、ファッションや食べ物だと日本的なものと欧米的な
違いを把握していても、恐らく問題提起の仕方や主義主張の仕方が、
それは大陸的、それは島国的というのが問題提起している人達、
主義主張している人達が分かっていないことでの対立は増えた
様に思う。
要するに島国文化の年輩の人達が、村社会や島国文化だけが
沁みついているところに、欧米的な視点だけで議論しても
平行線になる。例えば、医療でも私が大学生の頃から、
欧米の様にインフォームドコンセントという、医療者と患者さんや
その家族が意見交換というシステムを導入されていたが、
それを導入している医療者ですら、患者さんや患者さんの家族から
意見を言われることに慣れていないように、その国々の風土、習慣、気質、文化が違うものが制度やシステムとして入って来ても
浸透していないものは多い。
大陸において多様性な国際社会やグローバルな世界で
文化の違いの衝突やアイデンティティーの違いの摩擦が
起きる様に、それは国内における多様性においても、
やはり、アイデンティティーの違いで摩擦は起きる様に思う。
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