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貝の火

宮沢賢治の生み出した物語には、人生のかなしみや苦味があるお話がたくさん。「貝の火」もそんなお話なお話のひとつだと思います。

子兎のホモイは、川でおぼれそうなひばりの子を助けます。そのお礼にひばりの王様から「貝の火」という宝珠をもらうのですが、最初ホモイはそれを受け取るのを辞退しようとしていたのですが、受け取ったことで、段々態度が傲慢になり、モグラ達を見下したりキツネに騙され、だんだんと善悪の区別がつかなくなってきます。

そして、ホモイが何かを行うたび、貝の火の輝きが変わります。あっという間に権力や悪への誘惑に負けてしまい、警告を聞き入れなくなってしまう弱さは、人間も同じかもしれません。ここでは触れませんが、そうなってしまったホモイは最後に悲惨な結末を迎えます。

そんな結末を迎えたホモイを諭す父親、そしてオロオロとして泣くばかりの母親が対照的です。「こんなことはどこにでもある。それをよくわかったお前は、いちばんさいわいなのだ」という父親の言葉が心に響きます(とても宗教的な言い方だなあと思いつつ)。こんなふうに物語はアン・ハッピーエンドで終わりますが、子を思う父親がホモイを放っておくはずはなく「お父さんがよくしてやるから。な。泣くな」ともホモイに声をかけます。

ちやほやされてもおごり高ぶることなく、純粋な心を保ち続けるためには強さが必要で、反省とそして努力が心をみがかせ、光らせていくのだということが伝えられている気もしますが、実はそんな単純なことではないのではないかと、十分すぎる大人になった今は思います。

この物語の中に、ホモイが悪事を行った後に貝の火の美しさが増したという描写があって、それがホモイの慢心をさらに増幅させてしまうことにつながるのですが、厳格なホモイの父親ですら「貝の火が美しいなら大丈夫なのか?」と、ホモイを強く諭すことができませんでした。そんな父親の自信が揺らいだその晩、燃えているように美しかった貝の火は鉛の玉のようになってしまいます。

貝の火の様子と、ホモイの行動との相関性はほとんどなくて、よく考えてみると、ホモイの父親の感情の動きと相関性があるのだな、と。父親が正しい行動、言動をしていた間は、ホモイが悪事をしようとも、貝の火は美しく燃え、父親の気持ちが揺らいだら曇り、そして火が消えて。

そうとらえると、宮沢賢治の凄さをさらに感じるというか。ただ父親の感情の揺らぎが、子に悲惨な結末を迎えさせることになる、なかなか恐ろしいお話でもあるのかもしれない、と。そんなこと考える雨の秋の夕方です。

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