仮と本と責任と㊁
ここは集団の魂を纏める形で書きます。「どろんこ」は主として私を研磨しまくる目的のマガジンで、自分でも痛いほどの快さ‥。!(^^)!
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普通に暮す私(たち)は契約を自覚しているか?それとも自覚していないか?(近年は特に)契約を自覚して暮らす私のようです。大人の責任を自覚しだしてから日々をノンベンダラリと無自覚でやり過ごせなくなっているみたい。
大人だの、責任だの、自覚だのと言うが、私は言葉に価値を見ない。私は朝ドラ「なつぞら」に関する記事で「他者でなく肝心なのは自分自身なんだ」と書いたが、他者は私の宿便(= 宿業)を取払ってくれる有難い存在だ。
はっきり言えば、私に対するあなたの凡ての言動は私を磨き鍛えて私の宿業を取払い、私を高みへと押上げる働きをしている。子供なら「イヤだあ」と泣き騒いで逃げまわるところを、私の大人の自覚が前へ前へと押しやる。
契約は約束のこと。これを自覚するのは大人の責任感であり、自覚できない無能力な幼児は無責任な言動を恥かしげもなくする。責任感の有無が大人と幼児の違いであって、その点でゴキブリと幼児にさほど違いは見られない。
ゴキブリは自ら学習するが、自ら学習しない幼児は大人に成らない。持って生れた能力の差が学習の成果に大きな違いを生むだけでしかない。ゴキブリと幼児は保身に奔るしか知らないが、学習次第で幼児は大人になれる。
尊い人の話を聞いて有難がるのは好いが、人の話を聴けない幼児は持って生れた才能をドコでどう開花させるのか!? 持って生れた己の世界(環境)に有難味を感じなければ善く学ぶ機会は遠い遠い先になるってのになあ‥
即ち人(= 私)は善く学ぶ機会を強いて自ら得なければなるまい‥となる。提婆達多は善く学ぶ機会を得て長い長い年数を過ごす苦の道を自ら選り取ったように‥とは云え、私は私の道にあって多くの悦びを知っている事実。
どの道を選るも人間( 即ち私)に委ねられている権利。その権利を使いこなして私は善く語ることになる。これにもやっぱり仮と本と責任とが深く重く関わっていることが思われる。法は私の申し出を受けてくれる約束。
私の世界は、法は、私に実に実に有難いと感じられて‥感謝!
ここで「仮と本と責任と」は置いておきますね。
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