【短編小説】回遊する魚の噺#創作大賞2023#オールカテゴリ部門
(読了目安7分/約5,300字+α)
魚も、海の中で息苦しくなることがあるのだろうか。
雨粒が目に入るのも気にせず、闇で塗りつぶされた空を仰ぐ。星も月もなく、この道には街灯もない。光るものはときどき狂ったように走る自動車だけ。
ここまでどうやって来たのか、もうここがどこかもわからない。
ハイヒールの中がぐっしょりと濡れて、歩くことも嫌になる。私はその場に靴を脱ぎ捨てる。
前方に建物が見えた。外壁は黒っぽく闇に呑まれているが、中は煌々と明かりがついていた。海中の魚が光に引き寄せられるように、店内へと入る。
扉には鈴がついていて、それがカランカランと軽快な音をたてる。すぐに目に入ったのは、正面の棚に並べてあった大量の砂時計だった。どれも同じ形だが、中に入っている砂の量は様々だ。部屋の奥には従業員用とは思えない大きな両開きの扉がある。
ソファに座っていた正装の男性が、私に気がついて立ち上がる。真っ白になった髪とは似合わず、背筋が綺麗に伸びていた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
私の着ていたコートを受け取りコートハンガーにかける。その様子をじっと見つめていた私と目を合わせて微笑むと、彼は砂時計の棚の前のカウンターにつく。私は少し躊躇したが、向かい合うようにカウンターの椅子に座った。
彼は落ち着いた様子で、シェーカーでカクテルをつくる。夕日色の液体をグラスに注ぎ、私の目の前に置いた。
「ごめんなさい。私、お金持ってないの」
バッグはあの人の家を飛び出すときに、忘れてきている。靴だって途中で脱いでしまったくらいだ。
「これは、サービスですよ。このカクテルは貴方が少しでも温かい気持ちになるように」
優しく語る彼の声に、私は不器用に笑った。彼には泣いているように見えたかもしれない。
「ここはバーなの?」
オレンジの甘さを口に含んで、私は訊いた。
「いいえ。ここは噺屋です。ここではお客様に噺を聞いていただく。そしてその代金としてお客様からご自身の噺をしていただく。そういうお店です」
そういうと、彼は白い手袋をする。
後ろの棚を振り返り、ティーセットの隣に置いてあった、一つの砂時計を取り出した。大切そうにカウンターに置かれたその砂時計には、アルフレッド・リドナーと刻印されている。
「彼が来店されたときはもう七十歳は超えていましたが、もっとも印象に残っていた、十歳前後の頃の噺を教えて下さいました」
彼はそっと砂時計を反対にすると、真っ白な砂が細く流れ始める。そのさらさらと流れる砂が、青い芝の広がる木造の白い家を映す。私はどこか懐かしく思いながらその光景を見つめていた。
「この家には彼のお祖母さんが住んでいました。半年に一度、彼は両親とともにお祖母さんの家へ遊びに行きました。一日に二本しか無い汽車に乗っての小旅行です。彼はお祖母さんのことが大好きで、必ず作っておいてくれるお手製のレモンパイが大好物でした。庭のテーブルでレモンパイを食べながら紅茶を飲んで、彼は日常の出来事をたくさん話します。それをお祖母さんは本当に嬉しそうに聞いてくれました。暗くなって夕飯も食べ終わると、暖炉のそばのソファに座り、お祖母さんは様々な物語を語ってくれました。思わず興奮してしまうような冒険物語や、あまりに悲しくて涙が止まらなくなってしまうような物語。しかし彼が一番好きだったのは、ある仲の良い夫婦の話でした。その物語を語るとき、お祖母さんはとても優しい表情になるのです」
白砂は音をたてることなくゆっくりと時を刻む。外の雨音も聞こえない。聞こえるのは彼の語る声だけだった。
ある年を境に、両親は彼を連れてお祖母さんの家に行くことがなくなりました。
彼はお祖母さんに会いたくて訊ねます。
「どうしてお祖母さんのところへ行かないの? きっとレモンパイを焼いて待っているよ」
しかし、両親は忙しいからと相手にしてくれません。彼は残念で仕方ありませんでした。そこで、彼は一人で行くことにしたのです。
その日は朝から友達と遊ぶと嘘をつき、貯金箱を握りしめて駅へと向かいました。それは、彼にとって初めての一人旅でした。
村は何も変わっていませんでした。彼は見覚えのある道を辿り、お祖母さんの家へと向かいます。
玄関の扉を叩くと、少し間が空いてから扉は開きました。中からは懐かしいお祖母さんの顔が覗きます。しかし大好きなお祖母さんは彼を見てニコリともしません。
「お祖母さん、こんにちは。僕、一人でここまで来たんだよ」
彼はお祖母さんに会えたことが嬉しくて、思わずお祖母さんの手を取りました。しかし、背中の曲がったお祖母さんは困ったような顔をして、彼の顔をじっと見つめています。
「坊やは誰だい? この村の人だったかね?」
彼はそれを聞いてとても悲しくなりました。お祖母さんは会わないうちに彼の顔を忘れてしまっていたのです。
すると、家の奥から慌てて叔母さんが走って出てきました。
「この子は大切なお客さまですよ。さあ、お祖母さん、レモンパイを焼いてお茶にしましょう」
叔母さんは彼に目配せをすると、お祖母さんの小さくなった背中を押して家の中へと案内しました。
お祖母さんがキッチンでパイを焼いている間、叔母さんは彼に話をしてくれました。お祖母さんは物忘れが酷くなってしまい、今では一緒に住んでいる叔母さんのことも時々わからなくなってしまうのです。
「さあ、坊や。レモンパイが焼けたよ。奥さんも遠慮しないで召し上がれ」
お祖母さんは幸せそうに笑って熱々のパイと紅茶をくれました。お祖母さんの作る世界で一番美味しいパイを頬張りながら、彼はお祖母さんにたくさんの話をしました。
やがて夕方になると、彼は一日に二本しか走らない汽車に乗って、両親のところへ帰りました。
そしてその半年後のお祖母さんの葬儀の後、二度とその村を訪れることはありませんでした。
彼はそれから六十年も生きていたけれど、お祖母さんのパイよりも美味しいものに出会うことはありませんでした。もし願いが叶うのなら、もう一度だけ、お祖母さんの幸せな物語を聞きながら、お祖母さんの焼いたレモンパイが食べたい、と彼は思っているのです。
音をたてないまま、砂粒は細く流れ落ちた。彼が語り終えるのと同時に流れは止まる。砂時計の下の部分に出来た白い山に照明が当たって、きらきらと輝いていた。
「これが彼の語った噺です」
彼は止まった砂時計をそっと手で包み、もとの位置へと返す。そして、一番端の棚の最上段にまとめておいてあった、砂の入っていない砂時計を一つ取り出して、私の前に置いた。
「さあ、今度は貴方の番ですよ。貴方は何を語って下さるのですか?」
彼は今までになく少し緊張した面持ちで、私の顔を覗き込んだ。私はカクテルで口を潤す。
「このお店に入るまでは忘れていたけれど、落ち着いて考えてみたら、あれがきっかけだった」
目の前に置いてある砂時計の下の部分に白い砂が山を作り始める。透明だった砂が途中で白く色付いていく様子が、とても綺麗だった。
私も彼も海が好きで、夏には必ず海へと遊びに行った。その日も、彼のクルーザーで沖へ出たの。
彼はいつもコンパスをネックレスにして身につけていたわ。それは彼が幼いとき母からプレゼントされた形見だった。シャワーを浴びるときや海で泳ぐとき以外は必ず身につけていて、クルージングしているときにもつけていた。
気持ちが高ぶっていた私は、ふざけて彼のネックレスを奪ったの。運の悪いことに、そのとき横波があって、私はバランスを崩して海へネックレスを落としてしまった。
慌てて海に飛び込んで必死でネックレスを探したけれど、わからなくなってしまった。スキューバダイビングの準備をして日が暮れるまで探したけれど、結局見つからなかった。
でも彼はそのことで私を責めたりはしなかった。気にしなくて良い、もし拾っても使えないのだから捨ててしまっているよって。コンパスに触れる彼の癖。空振りした手をさりげなく下ろすのを見る度に、私は胸を刺されるようだった。
彼は変わらず私に優しく接してくれていたけれど、私にはその優しさがとても息苦しかった。彼がこんなにも優しいのは、私の他にも付き合っている人がいて、それを隠すためじゃないのか。そんなふうにも思えた。もちろん、ただの思い過ごし。私がそう思い込みたかっただけ。私を非難しない彼を、何でもいいから非難したかったのね。
私は彼の部屋に落ちていた髪を拾って、私の髪じゃないって罵った。散々こじつけた彼の悪口を言って、その部屋を飛び出して夢中で走ったわ。おあつらえ向きに雨も降り出して、私は馬鹿な私も罵った。彼に言った悪口なんて非にならないほどにね。
ねえ、私はやっぱりあのときコンパスを拾わなければならなかったんでしょう? 壊れていてもさび付いてしまっても、たとえ捨ててしまうことになっても、私は拾わなきゃいけなかった。
私はカクテルを含み、目を閉じた。口に出して、初めて私の目から涙がこぼれた。頬をつたい、乾いてきた衣服に染みこむ。
もう一度目を開いたとき、目の前の砂時計は完全に止まっていた。
彼は悲しそうな瞳をしていた。詰めていた息を吐き、そっと砂時計に触れる。手を離したその場所には、私の名前が刻まれていた。その砂時計を大切そうに両手で包むと、砂時計の並んだ棚の右端に置く。そしてその隣に置いてあった砂時計をカウンターに置いた。その砂時計にはどこか聞き覚えのある名前が刻まれていた。
「貴方には特別にこの噺をサービスしましょう。なにもこの店に来るのは人間のお客様だけとは限りません。彼女はイルカでした」
そう言うと、そっと砂時計を反対にする。止まっていた時間が動き出した。
彼女は広い海の中、群れで生活をしていました。親や兄弟と一緒に競争をして、ときには鯨と遊ぶこともありました。
その彼女の生活している海域に、あるとき人間がやってきました。その人間は、ただ彼女や他のイルカと一緒に泳ぐためにやってきたのです。ほとんど毎日のように彼は泳ぎにきて一緒に遊んでくれました。
しかし彼はある日突然、顔を出さなくなってしまいました。兄弟たちはまた自分たちで遊び始めましたが、彼女はその人間のことが気になって仕方がありません。そこで親には止められていた、浅瀬の方へと行ってみたのです。
海岸にはたくさんの人間がいました。しかし彼らしき人間はわかりません。浅瀬を泳ぎながら彼を捜していると、やがて人間が彼女に気がつきました。
彼女の背びれを見て、人間達は鮫と勘違いして砂浜へと上がっていきます。彼女がびっくりしてその光景を眺めていると、砂浜の一人の人間が彼女に黒い筒を向けました。大きな破裂音と同時に、彼女の背びれは急激に傷み出します。あまりの痛さに彼女は意識を失ってしまいました。
次に彼女が目覚めたのは、小さくて透明な箱の中でした。そこにはたくさんの種類の魚が同じところをただ泳いでいました。その狭い箱の中はゆっくりと泳いで回っても半日とかかりません。その箱の外側をたくさんの人間が歩いていました。
彼女は彼がもしかしたら通るのではないかと、毎日毎日探し続けました。そして身体が弱って他の魚と一緒に泳げなくなるまで、その場所で暮らしたのです。
彼女は言いました。もし彼女自身が人間だったら、その彼と陸でも一緒にいられたのに。人間だったら、こんな悲しい思いをしなくて済んだかもしれないのに、と。
砂の流れが止まった砂時計に私はそっと指先をのせた。
「馬鹿ね。確かに人間とイルカでは難しいけれど、人間と人間だってなかなか難しいのよ」
自嘲するようにそっと呟く。静かに見つめる彼に視線を戻し、微笑んだ。
「もし、また彼女に会うことがあれば、そう伝えて」
「承りました」
彼は同調するように微笑み返し、砂時計を両手で包むと、そっともとの位置に戻した。
棚に整列した砂時計にはそれぞれ名前が刻印されている。すべて知っている。すべてかつての私の名前だ。私の語る噺を、彼はいつも大切そうに、悲しそうな瞳で保管していた。
カクテルを飲み干して、席を立つ。そして名残惜しい店内を、愛情を込めて眺めた。
軽やかな音を鳴らす玄関の鈴。手触りの良いカウンター。並んだ砂時計と、私のお気に入りのボーンチャイナのティーセット。その横には手になじんだパイ型が出番を待っている。私が来るまで彼が座っていたソファセットは暖炉の前にあったかつての私の特等席だ。
彼は目が合うと安心させるように優しい微笑みを浮かべた。そして、上品に奥へと促す。
私は未来へとつながる扉を前に立ち止まり、もう一度だけ彼を振り返る。
「ねえ、アルフレッド、私――」
彼は私の言葉を手で制して、ゆっくりと首を動かした。私は一度目を閉じて、ゆっくりと開ける。
「じゃあ」
口の中で小さな言葉が転がる。その言葉に彼は優しい声で、はい、と答えた。
「またのご来店を、心よりお待ちしております」
彼は礼儀正しく頭を下げる。私は一呼吸置くと、目の前の両開きの扉を押し開いた。
note公式企画に乗っかっております。
せっかくなら各ジャンルで応募したいのですが、2万字書けぬへなちょこのため、オールカテゴリ部門です。
この話は元は20年くらい前に書いたもので、そこからエピソードを追加したり減らしたりと、私と共に成長してきたお話です。
よく「#名刺代わりの一句」というのを見かけますが、これは「#名刺代わりの一本」というところでしょうか。