自分の人生を生きるためのはなし その2モラハラのはなし
恋愛は宗教のようなものだよ、と知人が言った。
悪い宗教から抜け出せない人の多くは自分の心の弱い部分に付け込まれ、利用され、気がつくとそれなしでは生きていけないかのように仕立て上げられる。
ダメな男は女を不安にさせ、心を揺さぶり、依存させる。
私にもDV男から抜け出せなかった過去があるが、構図は一緒だ。
二度と同じ轍は踏まないと誓ったはずだったのだが、学習能力がなさすぎるのか人を信用しすぎるのか、歴史は繰り返す。
夫に対する金銭面での不信感を募らせた去年の夏。
その後話し合いの機会も持たせてもらえず季節は秋へ。
当時はまだ、積極的に離婚したいわけではないけれど、この先ずっとこの人といることはわたしにとって幸せなことなのかと考えてしまう、という状況だった。
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モラハラ(モラルハラスメント)とは、身体的な暴力ではなく、言動や態度といったモラルによる精神的な苦痛を相手に与える、DV(ドメスティックバイオレンス)の一種。
ある時ネットニュースを見ていたらふとこの言葉が目に留まった。
具体例を読みすすめて行くと動悸がした。これ私じゃん。
喧嘩すると、帰ってくるなり「クソが!くだらねえ!」と叫び、物を投げ、扇風機や鏡などを破壊。機嫌が悪くなるとすぐ大きい音を出してドアを閉めたり物を投げたりする。毎回ではなかったが結構日常茶飯事で、いつ直接手がでるかと思って怖い日々を過ごしていた。
飲みに言った時、酔っ払って店員さんに暴言を吐き、料理も残した状態でお金を払わずお店を出ていきタクシーで帰ってしまい、一人残されたわたしが二人分の料理を食べてお金を払い、泣きながら一人で歩いて帰ったということもあった。
怪我をした時に絆創膏を貼っている姿をみて、そんな貧乏くさい状態の人と一緒に居たくない、一緒に外歩きたくないと言われる。さらに、本当にそんなに痛いわけ?俺も同じようになったことあるけどそんなに痛くなかったけどね、と吐き捨てるように言われる。
痛みに苦しんでいる人の前でその発言が出るってモラハラ通り越してもはやサイコパスじゃん・・・ということもあった。
家事に間することも、「ここのゴミを取れ」と言われ、気になるなら自分で取ったら?と言ったら、「それなら全部捨ててやるからな!!」と謎の逆ギレ。「そんなくだらねえことは俺にやらせるな!!お前がやれ!」と叫ぶ。くだらないと思うこと嫁にはやらせてもいいと思ってんだ、と思って愕然とする。あとでやるよと言ってほかの家事してたら、「今やれや!!!!!!」と恫喝。
この繰り返しで一緒に生活することが精神的に辛くなってくる。
細かいことを挙げたらキリがないけど、喧嘩した時にモノを投げて壊す、すぐにイライラして威圧的な態度をとる、都合悪いことや機嫌悪いことがあると必要以上に強くドアをしめて音を出して威嚇する、私の趣味を否定し認めない、など、一緒に暮らし始めてからは毎日がストレスの連続だった。
そんなことが続く日々の中わたしは疲弊し、相手の顔色を伺い、機嫌を損ねないようにすることが日常になった。
物を投げることは毎回ではなかったが、それでも力では勝てないので何かあったらもしかしたら直接手が出るのではないかという恐怖は、わたしから反論する思考を奪っていった。
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そんな思考停止な脳が動き出すきっかけになったのは、久しぶりにあった親友と話をした時だ。
彼女から、「実は離婚しようと思ってて、具体的な話もした」という衝撃的な発言を聞いた。子供が二人いて、旦那さんも優しくお金もあり、傍目には円満で何も問題のないような家庭に見えていたからだ。
話を聞くと、外からでは見えない色々な問題を抱えていた。ただ子供もいるので、自分が我慢するしかないと思って生活していたようだ。そんな彼女に決断させたのは、第二子妊娠中に見つかった病気がきっかけだった。幸い早期発見だったこともあり現在は健康上の問題は無いのだが、今も将来的な再発のリスクを抱えている。
まだまだ気持ちは若いと思っている私たちだが、年々病気のリスクは上がっていき、時には命に関わる選択を迫られることもある。彼女はそれを実体験として感じた時、もしかしたら数年後に終わるかもしれない人生を、このまま不満を抱えて終わりたく無いと思ったという。
私たちはついつい日々を無為に過ごしてしまう。
もしかしたら明日、このいのちが尽きる可能性もゼロでは無いのに、だ。
しかし毎日を、日々世界に感謝して生きる事ができるほどピュアな年齢でもなくなってしまった。
こころの奥底では考えている、明日死んだら後悔しないか。
それでもその考えを元に行動して生きることができるほど、仕事も楽じゃないし、人間関係も複雑だし、大変な世の中にみんな生きている。
どう死んでいくかは、どう生きたか。
明日人生の終わりが来た時、わたしは全力でこの人生を生きたと言えるのか。
2019年冬、決戦の時は着々と近づいて来ていた。
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