【エッセイ】ラジオと図工と創造性
今朝、ラジオを聴いていたら、QuizKnockの伊沢拓司さんが話していた。
伊沢さんは、仕事柄お子さんと話すことが多く、よく苦手な教科とその理由を尋ねているという。
ある時、子どもが「図工が苦手だ」と答えたという。
図工が苦手、というのは珍しいと思って、伊沢さんがその理由を尋ねると、
「作り方は教えてくれるけど、何を作りたいかを思いつく方法は教えてくれないから」と答えたらしい(細かい言い回しは違うかも)。
なるほど、鋭い視点だ。
確かに、アイデアを生み出す方法は学校では教えてくれない。
語弊のある言い方だが、図工というのは現行の科目の中では珍しく、クリエイティビティ(創造性)を発揮できる科目と思っていた。
(もちろん、国語の授業で文章を書かせたりなど、創造性を必要とする場面は他にもある)
しかし、そんな図工でも、子どもの創造性を十分に発揮できるような授業とはなっていないようだ。
ふと、自分の小学生の頃のことを思い出してみる。
自分にとっては、図工は一二をあらそうくらいに、好きな科目であった。
絵を描くことも、工作も大好きだった。
僕の場合は、作りたいものはすぐに思いついた。そして、それは自然なことだと思っていた。
大抵は、その時にはまっていたものや、何か見たり聞いたりして気になったものなど、作りたいものは絶えなかった。夏休みの自由研究も何を作ろうか困ったことはなかった。
自分にとってはそれが普通だったが、そうではない子もいるというのは発見だった。
だが、今となってはどうだろか。
何か作りたいものはあるだろうか。
あの頃よりも、できることは増えている。
一応プログラミングもできるし、多少なら電子工作だって基本は抑えている。表現の幅は格段に上がっているのだ。
だが、作りたいものはあるだろうか。
年をとる毎に、創作意欲みたいなものは削がれていっている。
それでもまだ20代の頃は、年に一度くらいは損得関わらず、
「あ、こういうの作りたい」って思えることがあった。
しかし、30超えてからというものの、何か作っただろうか。
僕らは、新しいことを知る毎に、新鮮に思えることが一つ減っていく。
常識という名の固定観念が、僕の中の感動を押さえつけている。
新しい発見とその時得られる感動が、創造のモチベーションだったと気づいた。
僕は今、伊沢さんが質問した子供と同じ状況だ。
大人になった僕は、どうやって新しいアイデアを生み出そうか。